2013/10/08

ネズミ

ポイントホープでは、8月も下旬を過ぎると、もうすっかり秋である。
その頃になると、川を遡るマス類の漁のために、内陸のククピァック川へ出かける人が増えてくる。
ククピァック川での漁は、秋から冬、氷が張り込めても行われている。

ククピァック川で捕れる主な魚のひとつに、グレイリング(カワヒメマス)がいる。
日本ではあまりなじみがないが、一部の管理釣り場(釣り堀)で釣ることが可能。また、一部の川や湖で「特定外来魚」として、厄介者扱いされている魚でもある。
背びれが非常に大きく、他のマス類とはすぐに区別が付く。マス類の中ではもっとも美しい魚と言われている(らしい)。
ポイントホープでは、主に凍らせたものをナイフでぶつ切りにしてから皮を剥ぎ、適当な大きさに切って、シールオイルを付けて食べる(コークと言う)。肉も美味だが、胃袋も貝のような歯ごたえがあって美味しい(他のマス類は胃袋を食べる人は少ないと思われる)。

今年もポイントホープにグレイリングの季節がやってきた。
フェイスブックに大漁のグレイリングの写真を載せているポイントホープの友人が何人もいた。
そのフェイスブックに上げられたいくつかの写真の中に、妙な写真が1枚。
ダンボールの上で腹部を開かれたグレイリングの横に、びしょ濡れの毛玉のようなものが二つ。なんだろう? と思ってコメントを読んでみると
「グレイリングの腹の中から、ネズミが2匹出て来た。こんなのは始めてだ」
と。
北海道のイトウなどは、かなり獰猛で陸上に住むネズミなどを食べると聞いたことはあるが、グレイリングがネズミを食べるとは聞いたことがない。

そんな矢先、ポイントホープの居候先の主、Hから電話がかかって来た。
「なあ、知ってるか? Jが捕ったグレイリングの腹からネズミが出て来たんだよ」
「ああ、知ってるよ。フェイスブックに写真が出てたよ」
「オレはもう、金輪際グレイリングは食わないからね」
Hは普段、魚を凍らせたも「コーク」はほとんど食べないのだが、唯一食べるのがグレイリングだった。

約2週間後、再びHからの電話。
「知ってるか? グレイリングの腹からネズミが出て来た話」
「うん、この間してくれたよね」
「父ちゃんがグレイリングくれるって言ったんだけど、オレは食わないからいらないって言ったんだよ」
「もう、そっちはかなり寒いんだろう? 川も凍ってるんじゃないの?」
「そうだね、そろそろ凍ってるかもしれないね。でも今日は暖かかったから、少し融けたかもしれないけど」
ちなみに、Hはみんなが魚をくれるので、わざわざ川まで魚を捕りに行くことはない。
「だとしたら、もう川辺にネズミはいないんじゃない? グレイリングの腹からネズミは出て来ないと思うよ」
「いや、もう食わない。絶対に食わない」

以前にも書いたが、彼はネズミが大嫌いである。怖いらしい。
ちなみに虫も嫌いであることも以前に書いた。
夏、レストランから買って来たハンバーガーの包みからハエが飛び出して来たことがあった。
「オレは二度とレストランのものは食わない」
と言っていたのに、2週間もしたら再びレストランのハンバーガーを食っていた。
なので、ほとぼりが冷めた頃には、再びグレイリングを食べているのではないかと思うのである。

2013/08/14

わたくしと「ば」

朝、目が覚めたらまず1本。ま、1本で終わることはなくて、平均すると3本くらいかな。
そうすると朝ごはんを抜いても苦にならないし、なかなかいいよ。

外から帰ってきたら、一休みしながら、とりあえず1本はいきたいね。
寝る前にも欠かさないよ。だって安心して寝られるからね。

猟から帰って来て、すぐの1本も最高だね。特に獲物が捕れたときなんて、言葉にならないよ。

1本やりながら、ソファに横になって見るテレビもいいよね。
え? 何を見るかって? ナショナルジオグラフィックチャンネルのドキュメンタリーは面白くて好きだよ。
でも、あの動物どうしが、様々な知恵と技を使って激闘するあの番組が一番すきだな。
え? 知らないの? 昔からやっているネコとネズミが激闘するあの番組を?
まぁ、いい。

ところで一本やる際、毛布が欠かせないことは君も知っているよね。あの毛布もなんでもいいわけではないんだよ。
何年も使い続けているお気に入りの一枚。時々洗濯されてしまって、お気に入りの香りが飛んでしまうことが難点と言えば難点かな。ま、すぐにもとにもどるけどね。
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以上、現在6歳のとある少年の証言を勝手にまとめて見た。
普通だと2歳くらいまでにはやめるであろう「哺乳瓶」を未だに愛用している彼。
それなりに恥ずかしいと感じているようで、一応友だちには内緒。
彼の家の冷蔵庫には、彼が3歳くらいのときの哺乳瓶をくわえている写真が張ってある。
友だちがその写真を見ている。
「昔、哺乳瓶を使ってた頃の写真だね」
と、彼は何事も無いように言ってのけた。
横で聞いていた我々は爆笑していたのは言うまでもない。

彼は起きるとパンツ一丁で自分のところまでやってくる。そして
「Shingo make me Bo!」
「Bo」は「bottle(哺乳瓶)」のこと。日本語風の発音だと「ば」。
エバミルクという濃縮ミルクを3倍ほどに薄めて作ってあげる。
「自分で作れよ」
と言うけれど、未だ誰かに作らせている。
そしてお気に入りの毛布で哺乳瓶を包み隠すようにして、トムとジェリーや、アラスカ関係の番組を見ながら、チュウチュウ吸っている。

ところで、ポイントホープに限らず、エスキモーの人たちの多くは、養子のやり取りは珍しいことではなく、子どもを育てたいと思ったら、何の躊躇もなく養子をもらう。
その結果、両親と全く顔つきが違う子どもたちがたくさんいる。結構年をとったカップルの間に、幼い子どもがいたりする。
そしてほとんどの子どもたちは、自分に産みの親がいることを知っている。
産みの親と育ての親が違うことによるイジメやドロドロしたドラマは全くない。

本編の主人公の場合も、育ての母親の兄夫婦から、生まれてすぐに養子としてもらわれて来た子どもである。
そのため、母乳を知らないが、彼の哺乳瓶好きと何か関係があるのかはわからない。

さて、その彼、ついでに言うと、未だ尻を自分で拭けない。
台所で調理していようが、ベッドでくつろいでいようが、バスルームから声がかかる。
「Shingo done!(シンゴ、終わった!)」
バスルームへ行くと、四つん這いで尻をこちらへ向けて待っている。
ぶつぶつ文句を言いながら、尻を拭いてやる。
「写真撮ってやろうか? で、ベッキーに見せてあげよう」
「やだ。絶対ダメ」

来年は、哺乳瓶作りも尻拭きも終了していることを望みたい。

2013/07/12

ウミァック

エスキモーの間で古くから使われている船にはカヤックとウミァック(ウミアック)というものがある。

※ウミアックを「ウミァック」と書いているのは、ポイントホープでは、「ウミァック」に近い発音をするから。日本人の耳には「ウマーック」 とも聞こえる。


カヤックは1人ないしは2〜3人乗りの小型の細長い舟。
ウミァックは8人程度からそれ以上が乗れる大型の舟。
どちらも木製の骨組みに海獣の皮を張って作られていたが、今では布やグラスファイバーを張る場合も多い。

カヤックは今や世界中でレクレーションに用いられるほど普及しているが、エスキモーの間では廃れつつある文化と考えても良いかもしれない(グリーンランドでは今も現役だが)。
ポイントホープでは、カヤックはそれほど重要視されていなかったようで、10数年前に当時60代だった人に話を聞いたところ、その人が子供の頃、既にぼろぼろになったフレームを見たことがある、というのを聞いたくらい。
この町ではカヤックよりも、公園のボート程度の大きさの小型のウミァックを作り、使用していた。ただし、これも廃れつつあり、今やフレームが残るのみで、使っている人はほとんどいない。

ウミァックは今も現役。かつては春から秋にかけて、水面がある期間はずっと使用していたが、今ではクジラの猟の時のみ使用している。
船尾より。フレームと皮の張り方等がわかる

かつて流木のみを組み合わせて作っていたウミァックも、今では市販の製材された木材のみを使う場合が多い。しかし船首部と船尾部の立ち上がり部分のみ、流木の中から適当な形のもの(根から幹にかけての曲がった部分を使う)を使用している人も多い。
 骨組みは金具やねじ、紐を併用して組み立てられているが、もちろん金属が普及する以前は、木に穿った臍(ほぞ)と、海獣の腱や皮で作った紐で固定されていた。

船体にはウグルック(アゴヒゲアザラシ)の皮を張る(セントローレンス島など、セイウチ
の皮を用いるところもある)。
6月に捕ったウグルックの皮は、丁寧に剥いで脂肪層も取り除いておく。ポイントホープではこのとき、前後の脚は切り取らず、皮に付けたままにしておく。
ビニール袋など、密閉できる袋に入れた皮を屋外の小屋や砂の中に8月頃まで埋めておくと、皮の表面が変質して毛が抜けやすくなる。
海で洗うなどして、毛をすべて除去した皮は、そのまま乾かして2月下旬から3月上旬にかけて、ウミァックに張るまで保存しておく。

ちなみに残った前後の脚は、非常に臭いが一部のお年寄りが好んで食べるそうだ。

ウミアックの上で昼寝中
皮を張る際に使うロープもウグルックの皮を使う(ナイロンロープを使っている人も多い)。
ロープを作る際にはポイントホープで「アレギラック」と呼ぶ、未成熟の小型のウグルックの皮を用いる。この方が皮が薄くてロープに適しているとのこと。
ロープを作るためのアレギラックの解体方法は、胴体の中央付近から、服とパンツを脱がせるように皮を剥ぎ、その切り口の部分から、螺旋状にロープを切り出して行く。

干して保存しておいたウグルックの皮は、しばらく水に浸けて戻して柔らかくした後、7枚ほどの皮を数名の女性たちが1日で縫い合わせる。かつてはカリブーやベルーガの腱(シーニュー)を使ったが、今では麻や皮革用の糸を用いる。
縫い目が表面に出ないような特殊な縫い方をするため、縫い目から水が漏れることはない。

縫い合わせた皮は、フレームの滑りを良くするためにクジラの脂を塗り、フレームに張って行く。
張り上がったウミアックをしばらく天日にさらしておくことで、漂白され、白い船体となる。
濡れた状態で置いておくと、あっという間に船体は薄汚れてしまう。

クジラ祭りにて。右側2艘は皮を剥がれてしまっている。
左から2艘目はベニア板にグラスファイバー張り
6月中旬、クジラが捕れたことを祝うクジラ祭り「カグロック」が3日間に渡って執り行われる。
祭りはウミアックを中心に行われ、夜間はウミアックを運ぶソリのを横にした状態で立て、祭壇のようにしてウミアックを置いておく(詳細はいずれ「カグロック」について書くのでその際に)。

クジラを始めて捕ったキャプテンのウミァックは、クジラ祭りの2日目(あるいは最終日)に、皮をお年寄りの女性たちに切って分け与えてしまう。
この皮は、固くて丈夫なので、マクラック(ブーツ)の底に使ったり、ナイフの鞘を作ったり、色々と使い道がある。

カグロックが終わると、クジラの猟も終了。
イキガック上のウミアック
船首は北。太陽も北
ウミァックの皮を外し、折り畳んだ皮は、物置へ。状態が良ければ翌年また使用するし、場合によっては、ナルカタック(ブランケットトス、人力トランポリン)用に使われる。
骨組みだけになったウミァックは「イキガック」という木で作った棚へ載せておく。
そのとき、船首は必ず北へ向けておく。何故か分からないそうだが、昔からそうやっているとのこと。

猟になかなか出られず、あまりにヒマだったので、海岸で拾って来た木片と物置に転がっていた材木の切れ端を使って、ウミァックの模型を作ってみた。
ヒマに任せて模型を作ってみた
本当はすべての材料を海岸で拾って来たかったのだが、次第に面倒くさくなり、物置の材木で代用。
電動工具を引っ張り出すのが面倒くさくて、斧とナイフで木を縦に割って細い材をつくり、本当はすべて糸で縛って組みたかったが、面倒くさくなり接着剤を多用。
ヒマと面倒臭さの賜物である。
肋材の本数が少なかったりするが、基本的には実物と一緒。

天候が悪くヒマな日々が続いたので、皮を張ってみた。
材料は先日作ったウグルック(アゴヒゲアザラシ)のイガローック(腸)の皮。
家主からはイナローック(脱毛して漂白したアザラシの皮)を使った方が本物に近い、と
イキガック(舟を載せる棚)も
本物風に作り、上に載せてみた
言われたものの、皮自体が厚いので、外から船体構造が分かりにくくなりそう。フレームがその厚い皮の張力に耐えられなさそうでもある。
イガローックを張った方が、何となく古めかしい感じがしてよさそうだ、とのことでチクチクとイガローックを縫った。
乾いたまま縫うと針穴から裂けて来るので、水で濡らしてから縫う。
それなりの縫い方があるはずなのだが、よくわからないので適当。結果、所々隙間が見える。

クジラに撃ち込むための銛のロープには「アヴァタクパック」と呼ばれるブイ(浮き)がついている。昔は、アザラシの皮を服を脱がすように剥いで、風船のように空気を入れて膨らませたものを使っていた。
いろいろ考えた結果、この模型のウミァックに合う大きさのアヴァタクパックを作るのに、ちょうど良い大きさの生き物に思い当たった。

「アヴァタクパック作ろうと思うんだけど」
「アザラシの皮の切れ端でも使う?」
「いや、ネズミ」
「え?」
「ちょうどいい大きさじゃん」
「いい考えだと思うけど、誰が捕まえるんだ? オレはイヤだよ」

家主はネズミが恐いと言っていた。見るのも怖いらしい。ウグルックなどは平気で捕るのに。
アヴァタクパックなどを作り出したら、パドルやら銛やら色々作らなくてはならないので、とりあえず却下。

2013/07/10

野生の肉

エスキモーは生肉ばかり食べていると思っている人がいるかもしれないが、ポイントホープの場合、生肉はほとんど食べない(昔は食べたのかもしれないが)。
それなりに加工したもの、すなわち凍らせたもの、乾燥させたもの、あるいは熟成させたものを食べることが多い。

地域によって食べる動物の種類がことなり、あちらの町では普通の食べ物も、こちらの町では食べることの無い物だったり、アラスカの中でも地域差は大きい。

例えば...
セントローレンス島という、ベーリング海に浮かぶ島へ行った人。
「コーク(凍った肉)を出されたんで食べたんだよ。あとからセイウチの肉だって聞いて、気持ち悪くなっちゃって...」
ポイントホープでは、セイウチの肉は必ず茹でて食べるので、こういうことになる。

アンカレジで、ポイントホープ以外のどこか遠くの町から来たエスキモーの人たちの食事に招かれ、ポイントホープでは食べることの無い種類のアザラシの料理を出された人。
「そのアザラシ食べたの? どんな味だった?」
「そんなわけのわからないもの、食べるわけないじゃない」
違う種類のアザラシは「わけのわからないもの」になってしまう。
日本人から見れば、アザラシなんてどれも一緒だろう、と思うのだが、かなり違うものらしい。
ちなみにアゴヒゲアザラシとゴマフアザラシでは、味も肉質も全く違うので、やはり種類によって味は違うのだろう。

ポイントホープの人たちが、内陸の町の親戚の家に出かけた。
ある日、親戚一家は出かけてしまい誰もいない。腹が減って来たものの、冷蔵庫に肉があるのみ。
「この肉、なんだろう? アザラシのようだね」
「じゃスープにでもしようか」
ということでスープを作って食べていると、親戚一家が 帰って来る。
一緒にスープを食べる。
「ポイントホープでも、この肉を食べるんかね?」
「もちろん。海で捕って来て食べてるよ。おいしいよね、この肉」
「ほう、ポイントホープじゃ、これ、海にいるんだ」
「え? アザラシじゃないの?」
「これ、ビーバーだよ」
「・・・」
そう、内陸なので、アザラシはいない。
散々食べたあと、ビーバーと知らされて、しばし呆然としていたらしい。

ポイントホープの人たち、食べ慣れないもの、変わった物はあまり食べたがらない割に、日本から持って来た、スルメや煮干しは大好物だったりするので、食べる食べないの基準がどこにあるのか、未だ謎である。





2013/06/29

カッパのもと

ウグルック(アゴヒゲアザラシ)を解体すると、でろでろと長い腸、イガロックが出て来る。
その腸を切ると、うねうねと平らで細長い黄色っぽい寄生虫が大量に出て来る。勝手にサナダムシのサニーと名付けているが、実際にサナダムシの仲間なのかはよくわからない。
血液中からも大量の白くて細長い寄生虫が出て来る。これはアニサキスの仲間だと、某機関の専門家に同定してもらったことがある。なのでこちらはアニサキスのアニーと呼んでいる。

さて。その腸(主に小腸部分)。
そんなに大量に食べないので、ほとんど捨ててしまう。
食べる場合、ぶつ切りにして茹でる方法が一般的。
腸の外壁を、脂肪層の上(まな板代わり)で細かく刻んだ「カーク」は、ちょっと臭い、こりこりとした歯触りの食べ物。「エスキモーのサワークラウト」と呼ぶことがある。歯触りがサワークラウトに似ていないことも無い。

そんな腸なので、好きなだけ貰って来て、好きなように加工が出来る。
解体現場では、腸を適当な長さに切って、適当な大きさの小石を一粒腸に入れて、中身(消化中の食べ物と寄生虫)を、小石とともにしごき出す。
水に浸けたまま冷所に置いておけば、すぐに作業しなくても大丈夫。万一食べたくなったら、ぶつ切りにして、よく洗ってから茹でれば良い。

空気を入れて乾燥中
手に匂いが付くとなかなか取れないので、ゴム手袋をはめ、腸の外壁を削りとるように、スプーンで剥がしていく。こうすると外側の血管なども奇麗に取れていく。
外壁が終わったら、腸を裏返す。長いと裏返すのは大変なので、適当な長さに切っておく。
外壁同様、内壁もスプーンでこそげ落とすが、外壁ほど大量の付着物は無いので、外壁ほど時間はかからない。
内壁、外壁ともに奇麗にしたら、奇麗な水でよく荒い、腸の片方の端を紐で縛る。
そして反対側からおもむろに息を吹き
込んで、糸で縛ると、細長い風船の出来上がり。
よく洗ってもやっぱり臭いので、実は空気入れを使って膨らませているのだが。

数日天日に干せば、からからに乾いた、油紙製の風船のような物が出来上がる。
一度乾かしてしまうと、結構丈夫で、手でくしゃくしゃにしても、紙のように破れることはない。
昔はこれを切り開いて、縫い合わせ、 雨具を作っていたそうだ。何しろ腸なので、防水性は高い。

太鼓の模型と汚い手袋
今はカッパを作る必要も無いので、エ
スキモー唯一の楽器である太鼓の模型を作ったり、子供がファッションショー(様々な行事のときにエスキモーの衣装のコンテストが催される)に出るための衣装を作ったり。

何度か太鼓の模型を作ったことがある。 一部を除いて、行方不明になってしまったので、また作ろう。
余ったら何か小物入れでも作るか(臭いけど)。

北風

地図を見ればわかる通り、ポイントホープは北極海に突出した岬の先端にあり、三方を海に囲まれている。
東側も海岸沿いにラグーン(潟湖)が発達しているため、かろうじて陸地とつながっているような感じである(言うまでもなく、下の地図は上が北)。


大きな地図で見る

4月から5月にかけて、まだ海の凍っているこの時期、クジラの猟は町の南側の海面(氷上)が猟場となる(北側は水深が浅いため、クジラはやって来ず、猟に適さないとのこと)。
南の海面は、北風が吹かないと開かないために、ひたすら北風を待ち続ける。

「おまえ、あの歌、歌ってるか?」
「何? 忘れちゃったよ」
「ぶろー、ぶろーぶろーぶろー、ぶろー、のーすうぃんど ぶろー」
我らがキャプテンが調子っぱずれの歌声でオリジナルの「北風を呼ぶ歌」を歌う。
もちろん北風は吹かない。

時々、どんなに強い北風が吹き続けても、海が開かないことがある。そうなると、いつまでたっても猟に出られず、待機の日々が続く。

今年(2013年)も4月上旬に一度開いた開水面は、南風で閉じてしまい、4月下旬まで開くことが無かった。
4月の最後に数日だけ開いた開水面は、3日間で5頭のクジラをポイントホープにもたらしたが、再び南風が吹き始め、またも開水面は閉じてしまった。
 その後、5月下旬まで、どんなに強い北風が吹こうとも氷は開くことはなく、次第に上がる気温とともに、どんどん薄くなっていった。

 5月下旬、ようやく氷が開いた。あまりに薄くて危険かと思われた氷上のトレイルも、水溜りだらけながらも、かろうじて使用できる状態だったため、一部のクルーが出猟した。
6月1日、クジラが捕れた。
しかし、薄い氷に重たいクジラ。そして吹き始めた強い北風。あまりに危険なため、結局クジラのすべてを回収することは出来なかった。

6月に入り、クジラ猟が一段落するとウグルック(アゴヒゲアザラシ)の猟期となる。
天気の良い日には、氷の上でアザラシが昼寝をしている姿を見ることも多くなる。
そして強い風が数日吹き続けると、岸近くに張り付いていた氷が離れ、海岸からボートを出せるようになる(ウグルック猟では北側の水面も利用する)。

「北風の日に獲物はいないんだよ」
そう言い続けて来た。去年までは。

海流の影響もあり、一度砕けた氷は、強い北風が吹こうとも、南の海岸近くに広い海面を作ることがある。
海面の様子を確認に行っていた家主が帰って来た。
「ボート出すぞ。他のボートがウグルック(アゴヒゲアザラシ)」捕ってる」
「北風だぜ?」
「でもウグルックがいるらしい」

我が家の風見(100円の鯉のぼり)
逆さまなのはご愛嬌
そして結果は豊猟。
10日ほどの短い猟期の間に数日出猟したが、ほとんど北風が吹いていた。時々北風が止み無風状態の時もあったが、基本的に北風。

「天気予報によると、明後日から南風だって」
「南風だと何も捕れなかったりしてね」

そして吹き出した南風。あまりに強くて猟には出られない。
そして獲物もいない。
ウグルックの猟期はひとまず終了したようだ。

2013/06/08

The Arctic Sounder

常日頃、良いことをしているわけでもなく、かといって特に悪いことをしているわけでもなく(と自分で思っているだけかもしれない)、ただ他の人とはちょっと違う日常を過ごしているだけなのですが、長く変わったことを続けていると、時には注目してくれる人もいるようです。

主にアラスカの北部の町の情報を扱った「The Arctic Sounder」という週刊の地方新聞があります。
先日、Facebookにクジラの写真を載せたところ(ポイントホープで捕れた今年6頭目のクジラの写真)、どこをどうたどって来たのか、その新聞社から写真を使わせて欲しいと連絡がありました。
承諾するとともに、自分は日本人で、ポイントホープに20年も通っているんだ、と伝えたところ、そいつは面白いと、記事にされてしまった次第。
それほど難しいことは書いていないので、簡単に読めると思います(相手に自分のことを伝えるのに、難しいことを英語で書けなかったので、こうなったのかと)。
 
ウェブ版の記事は以下
http://www.thearcticsounder.com/article/1323japanese_visitor_finds_second_home

期間限定ですが、新聞自体をPDFでダウンロードできます。
http://www.thearcticsounder.com/pdf/as.pdf
※このページは恐らく2013年6月12日までのはず。
 それ以降は、次の号の記事になってしまいますので、どうしても読んでみたいという方は、ご相談ください。

家族(居候先や日本の)や友達が喜んでくれたことが、何よりも嬉しかったです。

2013/06/06

鳥の解体方法(閲覧注意)

2021年5月、修正済み(太字部分)。

春から夏にかけてがガンやカモの猟期。
特に5月中旬くらいは、ハクガンをはじめとするガンの猟期である。
捕れたてをすぐに捌くこともあれば、丸のまま冷凍庫に放り込んでおいて、必要なときに解凍して捌くこともある。

鳥インフルエンザが猛威をふるっていた頃は「鳥を扱う際は、ゴム手袋をして、ものを食べたりタバコを吸いながらの解体は控えましょう」というパンフレットが配られていたが、特に誰も気にすることなく、普段通り解体していた。

「ガンを貰ったから解体しといてくれない?」
家で一番ヒマにしているのは自分なので、必ず声がかかる。
そして先日は(2021年)は、1日で47羽もハクガン(この辺りでは「カゴック」と呼ぶ)を捕ってきて、家主が仕事なもんだから、朝から晩まで解体をつづけていた。

以前は、鳥の解体と言えば、基本的には羽根をむしることから始まると思っていた。
知っている人は知っている通り、死んで冷たくなってしまった鳥から羽根をむしり取るのはかなり大変である(熱湯に浸けるなど方法はある)。大量に処理する必要のあるこの付近では、なので鳥の解体は、皮剥ぎから始まる。

今回は備忘録も兼ねて、鳥の解体方法に付いて。

用意するものは、まな板代わりの段ボール、ナイフ、水、ゴミ袋、ジップロック、ペーパータオルなど。

背中に切り込みを入れて少し開いたところ
これはネガリック(ハイイロガンの仲間)
肉のほとんどついていない羽の先の方や、脚の先はあらかじめ切り落としておいても良いただし、地域によっては、脚を食べるところもあるそうなので、その地域の風習に従う。
背中側、背骨腹側に指を当てると、胸骨の硬い部分に触れるので、胸骨に沿って数センチ、指が数本1本入る程度の切れ目を皮にいれる。そこを手がかりに背中側腹側から皮を剥ぎ始める。

(追記:2021年、大量にハクガンを処理した結果、腹側からの方が楽だと判明)

羽根の付根、足の付根、首、頭と剥いで行く正中線に沿って、皮と身の間に指を突っ込んで腹側、首側へと剥いでいく。頭部から尻まで、切れ目ができたら、首、頭の皮を剥がす。(順番は適当)。頭を食べない場合は、切り落としてしまっても良いが、脳みそは意外と美味い。
腹側から、胴体の皮はある程度皮を剥がしておく。そして背中を上にして、首の皮を手掛かりに、後ろに皮を引くようにして、羽根部分へ。
羽根に残った羽毛を握り、袖を脱がすように羽根の皮を剥ぐ。
次いで、ズボンを脱がすように足の皮を剥ぐ。

片足を脱がされた状態
胸の皮を剥がすと羽にたどり着くので、羽に残った羽毛を握り、方袖ずつ脱がすがごとく、引き剥がす。

しっぽの先、いわゆる「ぼんじり」の部分は、羽毛とともに身体に残る。どうしても食べたければ丁寧に羽毛を取り除いて確保しても良いが、面倒くさいので、普通はそのまま切り捨ててしまう。

丸裸

ちょうど、背中にジッパーの付いた着ぐるみを脱がすような感じで皮を剥ぐ。上手に剥ぐことができれば、皮はすべて繋がったままなので、中に詰め物をすれば剥製のようになる(はず)。


鳥は皮の部分が一番美味い、と思っている人も多いと思う。自分もその一人だが、羽毛をむしる手間を考えると、皮を剥いてしまった方が手っ取り早い。
剥いだ皮には、美味しそうな脂肪層がたっぷり付いているのがとても残念なのだが、内臓脂肪も多いので、気にすることもないと思う

 ガンカモ類を捕まえる際は散弾銃を使用する。銃で撃たれているため、ほとんどの場合、どこかの骨が折れている。鳥の骨は非常に鋭いので、皮を剥がす際、この骨でケガをしないように気をつける。
気をつけつつも時々ケガをし、そして鳥インフルエンザのことが頭をよぎるのだった。
(2021年、鳥インフルのことはすっかり忘れていた。そして手を洗うのが億劫でゴム手袋使用)

皮の剥けた鳥の首の根元にぐるりとナイフを入れ、首を切り取る(折り取る)。頭の付け根も同様に。首の肉は少ないが、出汁が出るので、真ん中あたりで切って半分にする。
首のなくなった鳥を仰向けにして、
腹側から、脚を外側へ思いきり開き、脚を胴体から離れさせる。脚の付根付近にナイフを入れて、行くと、意外とあっけなく腿肉の付いた足が外れる。ニワトリと比べると腿肉は貧弱に思えるが、ニワトリは歩く鳥、ここで解体しているのは飛ぶ鳥。
羽根の付け根付近にナイフを入れる。関節に沿って肉を切っていくと、羽根が外れる。
翼の付根付近を背中側から見る(指で触る)と肩甲骨が見える確認できる。背骨と肩甲骨の間にナイフを入れて分離させる。裏返して腹側から羽の付根付近にナイフを入れて行くと、関節が外れ、羽の骨が外れる。
脚も羽も関節に沿って切れば、力はいらない。

指が入っている部分から肋骨を分離

頭と胴体だけになった鳥の肩甲骨の真下あたりに人差し指を突っ込み(右の写真)、 指を鍵型にして尻の方向へぐいぐい引いて行くと、肋骨の関節が外れる。ちょっと力はいるが、ナイフはいらない。
左右ともに肋骨の関節をはずし、腹側を押さえて首根っこを引き上げると、腹部と内臓の付いた背部に別れるので、内臓を外すし、首を切る

腹部には胸肉がたっぷりと付いている。まず、肩甲骨を関節で折り、肉を回収。ついで、いわゆるウィッシュボーンと呼ばれる部位の肉を胸肉と切り離す。阻止関節から折りとる。
ので、肋骨側からナイフを入れて、次いで、肋骨と肉の隙間から指を突っ込んで、剥がしていく。そして胸骨についている部分を外側から切り取ると、大きな胸肉がとれる。骨に沿って剥がしてく
そして胸骨の根元付近に残った、いわゆる「ささみ」も、指を使って剥がす。

内臓を外した背中側は、尻骨付近に大量の脂肪がついているため、肋骨が終わるあたりに上部からナイフを入れて折り、ほとんど肉のない前半部分は破棄。

上から砂肝、心臓、腸
内臓は砂肝、心臓、腸を食べる。メスの場合、卵巣に成長途中の卵がある場合もあり、それも食べる。肝臓など他の臓器も食べられるとは思うが、試したことはない

内臓の周りには黄色い脂肪がたっぷりとついている場合がある。人間だと内臓脂肪は毛嫌いされるが、スープに入れると美味しいので、捨てずに取っておく。
右の写真、腸とともに写っている黄色いものが脂肪。
腸は中身を出して奇麗にしておく。あまりに血まみれ、腸の中身が黒かったりした場合は、腸を破棄することもある。

砂肝の断面

ちなみに砂肝の中は、名前の通り砂だらけ。未消化の植物が入っていることも。
砂を奇麗に落とし、内壁の革質化した分を剥がす。

不思議なことに、これだけ砂がたくさん入っていても、腸には全く砂は入っていない(多少は入るのかもしれないが)。

さて、一通り解体の終わった段ボールは、血まみれでヌトヌトしている。ペーパータオルで拭いてもよいのだが、キリがないし、1羽ごとに段ボールを交換するのも、これまた大変。そこで編み出した技が、剥いだ皮で段ボールを拭く、というもの。
ハクガンの白く美しい羽毛のついた皮で、血まみれの段ボールを拭くのはちょっと気が引けたものの、そもそもこの皮、もうゴミでしかないので、使ってあげた方が、よいのかと。

 切り取った肉や内臓は、用意した水で洗い、ジップロックに入れて保存するか、そのままぶつ切りにして、鍋で煮込んでスープに。
弾丸の当たった周辺の血で真っ黒になった部分は「オガーク」と呼ばれ、まずいらしく、食べずに捨ててしまう。

味付けは塩のみ。他の具材はタマネギ程度で、とろみ付けに米やマカロニなどを入れる。
これだけで非常に味の濃いスープの出来上がり。
このスープに、醤油、ニンニク、生姜をちょっと入れると、ラーメンにも合いそうなスープが出来上がる。これに「讃岐うどん」などの乾麺を茹でたものを入れても、最高に美味しい。

2013/06/03

新しい長靴を履いて。。

Amazon.comに注文しておいた新しいブーツが届いた。氷点下数十度まで耐えられる防寒ゴム長だ。これで多少の水たまりも、湿った雪の中も気にせずに入って行ける。
特に今年は、5月中旬に例年に無い大雪が降り、ツンドラは至る所に残雪が残っていた。しかしここ数日、気温が上がり始め、その雪も溶け、時々雨も降るようになって来ているので、この長靴が活躍するだろう。

気温が上がって来たので、外の物置に置いてあったベルーガ(シロイルカ)の尾びれと胸びれが融け始めて来た。これは6月に行われるクジラ祭りで町の人たちに振る舞うもの。傷んでしまっては振る舞えないので、1970年代まで居住地のあった「オールドタウンサイト」付近にある、スイガロックというツンドラに穴を掘った天然の冷凍庫へ放り込みに行くことに。
さっそく、届いたばかりの新しい長靴を履き、こちらへ来る直前に日本で買った、ほとんど履いていない新しいスキーパンツ(防寒用オーバーパンツ)を履いてホンダで出かける。
途中、深い雪にスタックしながらも、どうにかスィガロックにたどり着く。
新しい長靴は全く冷たさを感じず、湿雪にも強く、快適そのもの。

スィガロックは永久凍土の地面に穴を掘り、保管庫にしたもの。冷凍庫が無かった昔は、とても活躍していたことだろう。
今は冷凍庫に入りきらないクジラの肉やマクタックなどを一時的に保管しておいたり、この町で「アギロック」と呼ぶクジラの尾の身の部分を秋まで入れておいて熟成させるために使用している。

※スィガロックに一時的に保管しておいたマクタックや肉は、熟成されて味が良くなっているので、多くの人、特にお年寄りに好まれている。

スィガロックにたどり着き、蓋を開けると、先週来たときには無かったものがたくさん入っている。
覗き込みながら唖然とする。
「いつもこの時期はこんなこと無いのにな」
「うん、初めて見たよ、こんなの」
スィガロックの中は、深さの半分程度まで水で満たされていた。
中に詰められた肉などはすべて水の下。
「ベルーガのしっぽを放り込むだけの簡単な仕事だと思ったのになあ...」
そう言いながらも紐付きのバケツで水を汲み出す準備を始める。

ある程度水を汲み出したが、まだ肉の隙間にはかなり大量の水が入っている。
「シンゴ、お前中に入って水をバケツに入れられるか?」
「んー、たぶんね」
この時期、マクタックや肉がたくさん入っているので、大きな人はスィガロックの中に入りにくい。周囲を見回すと、自分が一番小さいのだ(どんな場合も、大体自分が一番小さい)。

永久凍土とはいえ、1年中地表面まで凍っているわけではなく、暖かくなれば地表面近くの凍土は融けて来る。特に夏は結構深くまで融けるようだ(なので植物も生育できる)。
融けた氷は水となってスィガロックの中へと流れ込んで来るのは自然なこと。

スィガロックの中に入る。中はあちこち凍り付いていて、霜も付いているものの、1ヶ所からしずくが垂れている箇所がある。
スィガロックの中。クジラの骨で骨組みが組まれている。
骨の表面には霜が付いているが、写真の下の方には水。
「これだね、水のもとは。ここのところ暖かかったら、地表近くの氷が融けて来たんだろうね」

脂まみれの小さなバケツを使って、油の浮いた水を紐付きの大きなバケツに入れる。
脂肪層のついたマクタックや、脂肪でくるんで熟成中のアギロックなどを入れてあるので、スィガロックの中は脂まみれ。そして古くなって粘ついた脂も多い。
中へ入るとわかっていたら、古いブーツを履いてきたのに。古いスキーパンツを履いてきたのに。でも後の祭り。
ジャケットは古着屋で買ってからだいぶ年月の経った年季の入ったものなので、これだけはあきらめが付く。


何杯くらいくみ出したろう、ようやく底が見えて来た。
「明日もまた見に来なくちゃいけないね」
ジャケット、スキーパンツ、長靴ともに粘つく脂でぎとぎとに。特に新しい長靴は脂とスィガロック周りの枯れ草が張り付いて、ひどいことになっている。
周りに残った雪で脂をこすり落としてみたが、気休めにしかならない。

這い出て来たところ。
結局翌日も脂で汚れた長靴とスキーパンツ、ジャケットを着て水汲みに。
再びスィガロックの中に入り込んで、5ガロンのバケツで16杯分。バケツ8割で汲み上げていたとして、おおよそ250リットルほど。恐らく初日はその倍、500リットルくらいは汲み出しただろう。

日増しに水の量は減りつつあるが、気温も日増しに上昇している。
スィガロックへ潜る日々はしばらく続きそうだ。

2013/05/23

イライジャ

クジラ猟の元キャプテンで、牧師をしていたイライジャが亡くなった。
昨年のカグロック(クジラ祭り)の際、みんなの前で話をしていたのを聞いたのが、自分にとって最後の説教だった。

この町のキャプテンのほとんどは、キャプテン引退後数年で人生も引退してしまう。 色々な意味で引き際がわかっているのかもしれない。

イラジじゃの葬儀にて、歌う人たち
教会へ行くと、白い聖衣をまとったイライジャが聖書を片手に、わかりやすく説教をしていた。
何か行事の時は、必ず最初に祈りを捧げるのもイライジャだった。

でも、今日は違った。
説教をしているはずのイライジャは 棺の中に横たわり、代わりによその町からやって来た白人の牧師が何か話をしていた。

トラックに乗せられた棺
以前、海岸でクジラ猟の準備をしているとき、 いつの間にか傍らにイライジャが立っていたことがあった。
「どこからかミキアックの匂いがするな」
聞いたことのある声がするので振り返ると、満面の笑みのイライジャ。
ミキアックとは、クジラの肉とマクタック(皮の部分)などを使って作った食べ物の名前。そのときはクジラが捕れる前なので、ミキアックがあるわけもない。
そう、自分のエスキモー名はミキアック。彼はいつも「ミキアック」と呼んでくれていた。

この2ヶ月、ポイントホープではイライジャを含めて2名の牧師が亡くなった。
墓地へ向かう車列
もう一人の亡くなった牧師、ウィルフォードも魅力的な人だった。特に彼のエスキモーダンスは、見る人を笑顔にする、とても良いダンスだった。
イライジャも夫婦で、素敵なダンスを踊っていた。

人は年を取り、人生を全うしてこの世から去って行く。それはわかっている。でも、いつもそこに立っているはずの人がいない、というのはとてつもなく寂しいものだ。

2013/05/16

ものぐさな一日

エスキモーは、今の日本人からは考えられない程、簡単に養子のやり取りをしている。お年寄りなのに幼い子供がいたり、両親の顔と全然顔つきの違う子供がいたり。ほとんどが養子として育てられている子供たちだ。

居候先に奥さんの兄Lとその一家が、バローというアメリカ合衆国最北端の町からやってきた。ポイントホープに養子に出している娘が中学校を卒業するので、卒業式を見るために。ちなみに居候先の6歳の長男も、このL一家からやって来ている。

卒業式も無事終了し、L一家は、すぐにバローへ帰るのかと思えば、そうでもなく、この家でただひたすらぐうたら過ごしている。
ただし、子供たちは、両親それぞれの実家へ行って遊んだり、それなりに充実した日々を過ごしている様子。

Lは、腹の周りの脂肪がだらしなく垂れ下がった、典型的なアメリカ人的な巨体を持ち、ソファとトイレを往復しただけで息を切らしている。常にソファを占拠し、日がなテレビを見たりプレーステーション3(PS3)をしたり。
時々、この家の車を借りて出かけるものの、間もなく戻って来て、再びソファを占拠している。
テレビの前に座っている間は、必ず傍らにコーラがある。

午前中、ひっきりなしにLの母親から電話がかかって来る。しかしLは嫁とともに爆睡している。声をかけても「あとでかけ直すと言ってくれ」と言ってまた寝てしまう。

昼過ぎになるとようやく起き出して来て、冷蔵庫からコーラを出し、何か適当に食べ物をあさって、再びソファを占拠してテレビを見始め、夕方までテレビを見続ける。
家主が仕事から戻ると、家主と一緒にPS3。バスケットボールか野球のゲーム。
家主と自分が用事があって出かけている間は、一人でテレビを見ているらしい。我々が戻って、家主の気が向けば再びLとゲーム。
深夜12時過ぎに家主が寝る頃、家主の妹のボーイフレンドのDがやってくる。ちなみにDは、家主の奥さんの姉(故人)の子供、すなわちLはDの叔父になる。
そこからまたPS3を始めるLとD。
Dは無職。Lはポイントホープにいる間はとくにやることはない。二人とも気が済むまでゲームをしているらしい。
Dのガールフレンドは今まさに妊娠中で、もうすぐ彼は父親になる。ガールフレンドは毎日仕事に出て働いている。Dは彼女が留守の間に、彼女の部屋に潜り込んで、彼女のベッドで勝手に寝ているらしい。
こういう何とも言えない風景は、エスキモーの間ではそれほど珍しいことではない。

Lの奥さんは、卒業式の日の夜、自分の実家に戻り、深夜まで飲み続け、酔っぱらって帰って来て、玄関先で寝ていたらしい。
ちなみにこの町での飲酒は違法だ。
他の日も深夜までiPadで映画を見たりゲームをしたり、遅くまで起きている。時々思い出したように、何か調理をしてはいるが。
もちろん、奥さんもそれなりの巨体を持っているが、まだLよりも動きは軽い。

そんな感じで、何しにポイントホープにやって来たのかわからない、だらだらと妹夫婦の実家で過ごす、だらけた夫婦。

こっちの母ちゃん(すなわち家主の母親)に言われたのは
「誰かの家にお世話になる時は、自分がいる間食べる分の食べ物くらいは用意して、仕事はどんどん手伝うこと」
日本人からしても、当たり前のことをさんざん言い聞かされた。
そして、母ちゃんの家にやって来て、泊まって行く人たちは、実際にそのようにしている。
自分のことは半分くらい棚の上に上げておくとしても、自分に出来ることは、なるべく手伝うようにしている。

あるとき、白人の研究者が魚のサンプルを欲しいと、海辺で漁をしている人のところへやって来たことがあったそうだ。
その研究者は、傍らでずっと漁を見続けて、何の手伝いもせず、サンプルの魚を持って行こうした。すると
「何も手伝わないで魚だけ持って行こうなんて、そんな甘い考え通用するわけ無いでしょ?」
と追い返した強者のおばちゃんがいる。
毎年会う、白人の海産哺乳類の研究者は、きちんと解体作業を手伝って、必要なサンプルを貰っていく(恐らく、最初に強者のおばちゃんに色々言われたのだろう)。ついでに肉もわけてもらって、美味しくいただいているらしい。

テレビでしか見られないような、だらしないアメリカ人一家、しかもエスキモーの一家を間近で見ることが出来るなんて、なんて素晴らしいことだろう。

2013/05/13

ホワイトアウトの日

2013年5月12日
昨日の朝降り始めた湿雪は、気温の低下とともに本格的な雪になり、強い北風に乗って地吹雪の様になっている。

4月下旬、氷に亀裂が生じ開水面が現れた。海は町に数頭のクジラを与えてくれたが、その後吹き続けた南風で水面は再び閉じてしまったので、クジラの猟は一休み。
北風が吹いているが、今のところ町から近い海氷上に水面は開いていない。

エスキモーの間には、各地に「小さい人」や「大きい人」の伝承が残っている。
「大きい人」は、現在のエスキモーがアラスカへ入ってくる以前に、北極圏に住んでいた人たちのことが今に伝わってているのではないか、という説がある。

そして「小さい人」
ポイントホープでは時々「小さい人」に遭遇する人がいるので、実際に「小さい人」はいるのだろう、ということになっている。

10数年前、ホンダで猟に出ていた若者が、深く立ち込めた霧の中でトレイルを見失ってしまった。付近の地形を熟知している若者は、霧さえ出ていなければ決して道に迷うことはないのだが、その日は、自分の周囲がわずかに見渡せる程度の、いつになく濃い霧だった。
無駄に走り回ってもガソリンを消費するだけで、トレイルに戻れる確証はない。どちらへ進んでいいのか、途方にくれている若者のところへ現れたのが「小さい人」だった。
彼はイヌピアック語で若者に話しかけてきた。しかし英語で育ってきた若者には、ほとんど何を言っているのかわからなかった。身振り手振り、知っているイヌピアック語の単語を並べて、状況を説明すると、彼は若者をトレイルまで導いてくれたので、無事に町へと戻ることができた。

近年だと、町のほど近いツンドラで「小さい人」に出会った人もいるという。

「小さい人」を見たことのある人たちの話では、彼らの身長は、普通の人の半分くらい。昔ながらの動物の毛皮で作った服、ズボン、ブーツを身につけていて、イヌピアック語で会話をしているという。

町の言い伝えでは、彼らはツンドラに穴を掘って家にしており、普段から人目につかない様にしている。
猟は弓矢で行う。とても力が強くて、捕まえたカリブーを1人で楽々と担いでいけるほどだという。
霧が立ち込めたり、雪が激しく降ってほとんど周りが見渡せなくなっているホワイトアウトの日には、氷の上に出て、クジラを捕っているのだという。

コーヒーを飲みながら、風に吹き飛ばされていく雪を窓から見ていると、Pが呟いた。
「こんな日は、小さい人たちがクジラの猟に出てるんだろうな」

風と雪は収まる気配がない。

2013/05/05

クジラ

ここのところ、日本での仕事に区切りをつけて、5月の連休中にアラスカへ向けて出発ということが続いている。
そしてここ数年、出発の数日前、あるいは4月下旬に、クジラが捕れたとポイントホープから連絡があることも多い。

近年、インターネットのおかげで、あっと言う間に情報は画像とともに拡散する。
Facebookに「おめでとう」と載っていて、もしや、と思っていると自分の所属するクルーがクジラを捕っていたりする。

今年(2013年)の場合、4月下旬に立て続けに3頭もクジラを捕っている。引き揚げと解体作業はかなり労力を使うから、しばらく休んでから、次の猟だろうなと、安心していると、また続けて捕っている。
Facebookに上げられた写真を見ると、小型のクジラ(と言っても10mほど)なので、それほど手間取らないから、立て続けに捕ることも可能なのだろう。

さて。
つい昨日のこと。成田空港で出国手続きを済ませて、搭乗口で搭乗開始を待っていた。
ヒマなので携帯電話でFacebookを開いてみる。すると「捕った?」「捕ったよ!」との会話。
よく見るとうちのクルー。

え? 捕っちゃったの?

つい先日、電話でこんな会話をしていた。
「まだクジラが捕れないよ」
「焦ることないって、まだ4月だし」
「もう2週間も猟に出てないんだぜ」
「心配するなって。たぶん、オレの行く2日前にクジラは捕れるよ」

自分の所属するクルーのキャプテンの最初のクジラは、自分がポイントホープに到着する2日前に捕れた。
次のクジラもそんなものだった。その次は到着1週間ほど前。確か新宿でアラスカに持って行くものを買い物をしている時にクジラが捕れたと、連絡があったのだった。
その後もそんな状態が続いた。

実は自分のクルーがクジラを捕った時に、自分はその場にいたことがない。
そして先日の電話での会話。冗談が現実になってしまった。

何はともあれ、クジラが捕れたことは、とても嬉しいこと。
明日の午後にはポイントホープ。仲間たちとの再開がとても楽しみだ。

2013/04/27

W

ある朝、ポイントホープから電話があった。
「Wのこと、何か聞いたか?」
「いや、何も聞いてないけど」
「昨日の夜、銃で自殺未遂をして病院に運ばれたんだよ」
「え? 本当に?」
「今、アンカレジの病院に入院してる。集中治療室に入っていて、危険な状態らしい」
「どうしたんだろう?」
「よくわからない」
「Wは、今年もオレたちと一緒にクジラの猟に出るんじゃなかったのか?」
彼は昨年から、我々のクルーとして一緒に猟に出ていた。
「うん、そのはずだった。そのはずだったんだよ・・・」

 Wに何があったのかはわからない。
数年前までは、アンカレジとポイントホープとの間を往復しながら、あまり良いとは言えない仕事をしていたようだった。
ガールフレンドとの間に子供が出来てからは、ポイントホープに戻り、定職について真面目に働きながら、遅ればせながら猟の手法を色々覚えて始めていた。
昨年は一緒にトンプソン岬まで卵を採りに行き、彼も崖を降りていた。

1週間後、再び連絡があった。
状況はよくわからないようだが、Wは銃で自分の顔を狙ったらしい。
これまでに何度も手術を繰り返し、翌日には、あごの手術が控えているとのこと。

 Wにどんな悩みがあったのか、どんな問題があったのか、まったくわからない。だけど、死を選ばなくても良いじゃないか。
昨年、自分がポイントホープを去る日の午前中、Wはわざわざ電話をかけて来て、翌年の再開を約束したのに、集中治療室に入っていたのでは、会えないじゃないか。
また一緒に猟に出られるのを楽しみにしていたのに。また、卵を採りに行こうと思っていたのに。

数年前「ここ数年自殺者がなくて嬉しい」などと話をした数日後に事件があった。死んだ人には申し訳ないが、町の空気がしばらく殺伐としていたような気がする。

小さなエスキモーの町では、時々こう言ったことが起きる。たちが悪いのは、手近に銃がたくさんあるので、簡単に死んでしまえるということ。
絶望的な状況になり、発作的に引き金を引いたら、それでおしまい。

小さなエスキモーの町。
一見平和で、みんな自由に特に悩みもなく生きているようだが、何かしらの闇を抱えている人も多い。
アルコールやクスリに走る人が少なくないのは、抱えている闇から逃れるためだろうか。

お願いだから、引き金を引く前に、誰かに話をして欲しい。みんな親身になって、相談に乗ってくれる。周りにいるのは、そんな人たちばかりなんだから。

W、今年は無理かもしれないけれど、来年は一緒に猟に出られることを祈っている。

2013/04/01

本の紹介

日頃から当ブログ「カイジュウノツカマエカタ」をご覧になっている皆様、いつもご贔屓いただき、本当に有り難うございます。
誠に恐縮ですが、本日は宣伝です。

古くからの友人で、長年営業畑を歩き続けてきた岩内真実(いわうちまさみ)という男がおります。
彼は以前「エスキモーが氷を買うとき」という営業の極意のような本を出していて、職場では、営業の神様のような存在となっています(彼は一部上場企業の営業部に所属しています)。

その彼が再び営業の真髄を描いた、新たな本を出すことになりました。タイトルは
「エスキモーに炊飯器を売る」

会社の都合で自分のウェブサイトを持てないため、休眠中の自分のサイトを宣伝用に貸し出すことにしました。
 http://homepage1.nifty.com/arctic(現在は本編が通常営業中)
こっそり見たい方はこちら。
http://homepage1.nifty.com/arctic/20130401.html
詳細はそちらをご覧ください。
営業職の方ではなくても、読み物としても、とても面白い本になっています。

解説
上記文章は、すべてエイプリルフールのためのウソです。
「岩内真実(いわないまさみ)」読み方を変えてみてください「言わない真実」すなわち、ウソです。
「エスキモーが氷を買うとき」 なんて本も出ておりません。
当ブログ内でも書いておりますが、エスキモーの家に炊飯器は珍しいものではありません。岩内という男の営業成果によるものではございません。
炊いた米や炊飯器のことも「マサミ」とは呼ばれておりません。すべてウソ。
「民明書房」これは知っている人は知っていると思いますが、宮下あきらの「魁!!男塾」を読んでいた人なら、知っていると思いますが、架空の出版社です。

みなさん、ウソついてごめんなさい。

2013/02/28

カモ

銃で撃たれても、頭や心臓などを撃ち抜かれない限り、大方の生き物は即死はしない(はず)。
ウグルック(アゴヒゲアザラシ)などは、頭を撃たれてもしばらく生きている場合が多い。
なのでドラマで人が撃たれて、その瞬間に倒れて死んでしまうのはどうなのか、と思ったりするが、自分が撃たれたことがないので、そこはなんとも。
時代劇で一度切られただけで、全く出血もせずにばったり倒れて絶命ってのもどうなのか、と思ったりするが、自分が切られたことがないので、そこはなんとも(お茶の間に血は合わないか)。

クジラやウグルック猟の合間に、ガンやカモの猟に出ることがある。

湖のほとりのブラインドとベンチ
小さな湖のほとりに、流木を集めて作ったガンカモ猟のためのブラインドがある。
ブラインドの陰には、棺桶が入っていた箱をバラして作った手作りのベンチがあり、我々はそのベンチに腰掛けてガンやカモが飛んで来るのを待っている。
狙うはケワタガモやカゴックと呼ぶハクガンなど。
ケワタガモの羽毛は、日本では高級羽毛布団の材料として有名だが、こちらではゴミ。

「知ってるか? カモは毎日午後3時に飛んで来るんだぜ」
「あー、わかったわかった。今日、お前はその時間、何してたんだよ」
時間は日曜日の夕方6時過ぎ。前日、遅くまで(というか朝まで)テレビを見ていた結果、朝寝をし、ダラダラしているうちにこんな時間。
もちろん、3時にカモがやって来るというのはただの言い訳で、何時だろうがやって来るときにはやって来る。
しかしこの日は、時々飛んでくるのはカモメかワタリガラスだけ。
無駄話が続く。
「いいベンチだよな」
「だろう?」
前の年、猟に出れない日が続き、やることがないので、物置の横に転がっていた廃材(元棺桶の入っていた箱など)を使って、連日ベンチを作り続けていたことがあった(結局4脚作った)。
そのうちの一つがカモ猟用となり、我々が腰掛けている。

家に帰ると家主の奥さん
「獲物は?」
「スカンクが捕れたよ」

かなりの確率で、我々は猟に出てスカンクを捕まえて来る。
アラスカのツンドラにスカンクがいるというのも驚きだか、陸だけでなく、氷の海で海獣を狙っているときでさえも、スカンクが捕れてしまうことがある。特にクジラを狙っているときのスカンク率の高さと言ったら特筆ものである。
そして目的の獲物が捕れた際には、スカンクが捕れなかったことを残念がるほどのスカンク好き。

実際にはポイントホープ周辺にスカンクはいない。
獲物が捕れたときに
「今日はノー ・スカンク(スカンク無し)だったね」
と言うのだ。なのでスカンクが捕れた、ということは、獲物無し、ということ。

たまにはカモが捕れる。
時々飛んでくる群れ(ただしこれは氷の上)
低空を飛んでくる群れを狙って散弾銃を撃つ。時々当たる。
読んで字のごとく、散弾銃は散弾(小さな粒状の大量の弾)が発射される。銃口から出た弾丸は広がりながら飛んで行き、そのうちのいくつかが獲物に当たる。
うまいこと肉や骨に当たれば鳥は落ちてくるが、小さな粒状の弾が1〜2個身体に当たる程度なので、飛べないだけでまだ生きていることが多い。

湖に落ちて浮いているものは、そのうち死んで、風が岸まで運んでくれるので、そのまま放置。
陸に落ちたものは、ツンドラの草にまぎれて見失いやすいので、素早く回収する。ただし、捕まえようと追いかけると走って逃げる。死にかけてはいても必死で逃げる。
ようやく捕まえると、頭を持ってぐるぐると胴体を振り回す。うまくすればこれで首の骨が折れて、絶命してくれるが、意外とそうもいかない。
死んだはずのカモを横に置いて、他のカモの群れを待っていると、首の折れたカモがいきなり歩き出してびっくりすることがある。
雪の上に落ちたケワタガモ
首がだらりと垂れ下がった状態で、歩いているカモの姿は、結構不気味ではある。
慌てて捕まえようと追いかけると、
「ちゃんと殺せよ!」
と、声がかかる。
「わかったよぉ。ごめんよぉ(でも、うまそう)」
と言いながら、もういちど首の骨を折る。これでほぼ絶命。

ちなみに、撃ち落としたばかりのカモは、羽毛に覆われた生きている鳥なので、素手で触るととても暖かい。

捕まえたガンやカモは、すぐに食べない場合は、ビニール袋に入れてそのまま冷凍庫へ。
ガンカモの解体、調理については、またそのうちに。

2013/02/13

ウグルック

ウグルック(アゴヒゲアザラシ)
6月、クジラの猟が一段落し、氷が大きく動き始めたころにウグルック(アゴヒゲアザラシ)の猟がはじまる。
ウグルック猟には、陸上あるいは氷上から狙う方法と、ボートから泳いでいるものを狙う方法の、主に二つの手法がある。
氷の状況や猟師の腕によることが多いため、どちらの方法が効率が良いのかはわからない。

砕けた氷が大量に漂っているときや、海岸近くに薄い氷が張り詰めていてボートを出せないときは、海岸や氷の上からウグルックを狙うが、1日粘っても小さなアザラシが時々顔を出す程度で何も捕れないことも多い(小型のアザラシはあまり捕らない)。

波があると波間にウグルックを探すのも大変で、例え見つけたとしても、揺れるボートから動き回る生き物を狙うのは至難の技なので、ボートを出すのは、海が凪いでいるときとなる。

ボートの人員配置は、ボートの大きさや人の数によって様々だか、我々が小型のボートを使う場合は、銃を持った射撃手が船首に2名、、そのすぐ後ろに雑用係1名、操船は船長が船尾に1名ということが多い。

こども船長
ウグルックを見つけると、撃ちやすく、かつ安全な方向に船長がボートを移動させる。安全な方向とは、獲物の後方に他のボートがいなく、かつ陸地がない方向のこと。
海面をすれすれを飛んで行く弾丸は、水切りの石のように水面を跳ねて跳弾となり、思わぬ距離を飛ぶことがあり、非常に危険だからだ。

獲物を銃で仕留めると、素早くボートを獲物に寄せ、獲物が沈む前に、右舷に座った射撃手が長いロープと浮きの付いた銛を打込む(銛の打ち手が右利きの場合)。
そして雑用係が浮きを投げ込むか、銛に付いたロープを握って獲物を確保する。
確保した獲物をボートに固定して曳航するために、「ウナック」という長い柄の付いたフックを使う。ウナックをウグルックの眼窩に引っ掛け、ボートに引き寄せる。
まだ生きていれば、ここでとどめの一発を頭に撃ち込む。吹き出す血と脳漿が海面を真っ赤に染める。
曳航中
ウグルックが完全に動かなくなったことを確認してから、上あごにナイフで穴を開けてロープを縛り付け、舷側に固定して海岸へと向かう。

自分の場合は、銃は撃てないし、撃てたとしても獲物に当たるとも思えないので、雑用係としてボートに乗っている。
銛のロープ捌きとウナックが主な担当で、その合間に作業に支障が無いように写真を撮っている。
作業をしつつ写真を撮っているので、いつの間にやらカメラは潮まみれ血だらけ脂だらけ。幸い頑丈なカメラなのか、今のところ大きなトラブルは発生していない。強いて言うなら、艶消しだったカメラが、妙にツヤツヤし始めたことくらいか。

時々、射撃手が一人しかいないことがあり、そんなときは、ボートのバランスの関係もあり、射撃手の横に座ることがある。
そんなときでも自分が持っているのは銃ではなくてカメラなのだが。

「あー、失敗だ」
着弾した水面に派手に水しぶきがあがる。
「ちょっと低すぎたね。スコープ調整してある?」
着弾場所やらスコープやら偉そうなことを言っているものの、自分はボートから銃を撃ったことはない。今まで銃で撃ったことがある生き物は、すぐ目の前で直立したいた、ツンドラに住むホッキョクジリスくらい。

その日は、あちこちにウグルックが現れるので、Jを射撃手として朝からボートで走り回っていたが、Jの弾丸はなぜか一発も当たらない。
自分は、Jが撃ち損じてウグルックの手前や後方に上げる水しぶきの写真を、Jの隣で撮り続けていた。船長もかなりイライラしているらしい。振り返らずとも伝わって来る。

何度目かの失敗のあとJが言う。
「シンゴ、お前撃たないか?」
深刻な声で、銃を差し出しながら言うので思わず笑ってしまった。
「いや、自分の銃を使うよ。これなら失敗することないし」
とカメラを見せる。

「昼の準備ができたらしいから、ちょっと休もう」
後ろから船長の声。
ウグルックを狙うH

海岸に戻り、昼食。
午後からは昼食のサンドイッチを持って来たHが猟に加わる。

ボートを出してすぐにウグルックの姿。すかさずHが狙いをつけて、ウグルックをしとめる。
午前中の不発は何だったのだろう、というくらいあっけなく獲物が捕れた。

別の日、初めてボートからの猟に参加したW。
この日は大型のボートを使っており、Wが簡単に獲物が取れることはないだろうと高をくくり、船長の後ろに座って、のんびりとWの様子を眺めていた。

「あそこだ!」
獲物を見つけたWが指差す方向へと船首を向ける船長。
肉眼では、それっぽいものは見えないが、スコープを使っているWにはきっと見えているのだろう。
Wの銃から銃声がした。
それと同時に、彼が撃ったウグルックが空を舞う。

「お前、何撃ったんだ?」
「ウグルックかと思ったんだけど」
「ありゃ、鳥だろう」

ウグルックと比較すると、水面を泳いでいる鳥は小さいので、普通はわかるはずなのだが、距離が離れていると時には見間違えることもある。

「あれは?」
「あれはナッチャック(アザラシ)」
「あれは?」
「あれも」

ウグルックが水面を泳いでいるときは、水面に出ている頭は大きく、小型のゴマフアザラシなど(ナッチャック)とは明らかに形が違う。
ナッチャックは、好奇心が強く、ボートを見ても逃げずに「何やってるの?」という顔をして、こちらを見つめていることもある。逆にウグルックは警戒心が非常に強く、ボートの姿を見つけるとすぐに潜ってしまう。

ナッチャックとウグルックは、慣れるまではなかなか見分けがつかないが、大きな頭を上げて悠々と泳いでいるウグルックの姿は、そのうち見分けがつくようになる。
自分の場合、ようやく慣れて来たのは、猟に出始めて7〜8年経ってから。
雑用と獲物探しで、多少は役に立っているのではないかと、思う今日この頃。

2013/02/11

葬式

敬虔なキリスト教徒が多いのポイントホープの葬式は、教会で執り行われる。
普段着のまま教会に集まった人たちが故人を偲び、祈りを捧げる。
正装をしているのは教会の関係者だけ。

ポイントホープの墓地(8月頃)
ポイントホープの墓地は町の西のツンドラの中にあり、墓地の外周はクジラの骨で囲まれている。墓地の中に、一際大きなクジラの顎の骨が立っている。クジラ猟のキャプテンだった人の墓だ。

墓地以外にも埋葬されている人がいて、ツンドラに墓標が立っているところがある。墓標の前面、人が埋葬されている部分だけ、ツンドラの他の部分より、背の高い草が生えている。

人が亡くなると葬式の準備が始まる。
町から豪華な棺が取り寄せられる。墓標となる十字架は、太い角材を使った手作り。

あるとき、居候先の親戚が亡くなり、十字架作りから手伝ったことがある。
一辺が20cmほどの太い角材を組み合わせ十字にしてから表面を紙やすりで磨く。
電動工具を使い故人の名前と簡単な模様を掘り混んで、ニスを塗って出来上がり。

「これでお前も十字架の作り方を覚えたよな」
「そうだねぇ」
「日本帰ったら、おまえのお婆さんの作ってあげたら?」
「いや、生憎うちの婆ちゃんは仏教徒なんだよ」
「大丈夫だよ、死んでるから気がつかないよ」

十字架が出来上がると、今度は墓地へ行き、シャベルで穴を掘る。
5月のポイントホープは雪が積もり、地面はまだ凍っている。
(雪が溶けた後でさえ、永久凍土地帯なので、場所によっては地面を50cmも掘ると凍っている。墓地のある付近は砂利が多いためか、暖かい季節はかなり深く掘っても凍っていない)

表面の雪をどけ、ツルハシで凍った地面を砕きながら、男たちがシャベルでひたすら穴を掘る。
凍ってはいても地面は砂利なので、あっけなく崩れてきて、せっかく掘った穴が埋まってしまうことがある。そのため、ベニア板で作った大きな型枠を穴にはめ込んで、その内側を交代で掘り続ける。深さは1.5mほど。
汗が噴き出してくる。誰かが差し入れたコーラを飲みながら、墓穴堀は続く。

「昔は、人が亡くなっても、地面が溶ける夏頃まで、墓地の横にカバーをかけて、遺体を置いておいたんだよ」
友人が言う。
以前、そんな写真を見たことがあるような気がする。

教会での式が終わると、棺と十字架は、トラックの荷台に乗せられて、墓地へと運ばれてくる。この町に霊柩車などというものはない。
ロープを使って丁寧に棺を穴に下ろすと、集まった人たちは、各々一握りの砂利を投げ入れる。

冷たい風に乗って、細かな雪が舞い続けている。
中学生くらいの女の子が、静かに賛美歌を歌い始めた。冷たい風と雪とともに、彼女の歌声が身体に染み込んで来る。
棺は次第に砂利に埋もれていく。

亡くなった彼の父親が、集まった人たちに笑顔で「ありがとう」と言っている。

なんだろう、この寂しさは…

十字架を立て、シャベルで残りの砂利を穴に入れて行く。

集まった人たちは少しずつ帰り始めた。

作業に使ったシャベルやロープをトラックに積み、我々も帰路へと着いた。

ダメだよ、まだ若いのに。
小さな子どもが何人もいるのに。
いくら病気だとは言っても。

始めてポイントホープを訪れた頃、墓地の端にあった墓標は、いつの間にか墓地の中にほどに。 そう、墓地は徐々に拡張されている。
気がつけば、その場所は、何人もの友人知人が眠る場所になってしまっている。

2013/02/07

ナルカタック

Youtubeにナルカタック(ブランケットトス、人力トランポリン)の動画をアップロードしたので、ご覧くださいませ。

ナルカタック

ナルカタックは、遠くの獲物を高いところから探すために、ブランケットで人を高くまで投げ上げていたことが由来と言われていますが、現在はお祭りで行われるのみです。
ポイントホープの場合、6月中旬に開催されるカグロック(クジラ祭り)のときのみ。基本的に誰でも飛ぶことができますが、クジラを捕ったクルーや、男の子を産んだ人が優先です。

飛び方は、ただバランスを取ってブランケットの真ん中に立っていれば、周りの人たちが投げ上げてくれます。
その際、膝を曲げると力が抜けるので全く飛びません。
上に上がった際、思わず下を見てしまうのですが、そうすると身体が前のめりになり、真っ直ぐに着地できません。
頂点では一瞬の無重力状態。そこから下を見下ろすと、遥か下の方に、小さな円形のブランケットが見えます。落下が始まると、チビリそうなくらい怖いですが、何とも言えない気持ち良さです。
上手な人は、宙返りをしたり、ポーズをとったり。自分にはそんな余裕はありません。

飛んでいるおばちゃん、アアナが何か投げているのは、お祝いの品。彼女はこの年、男の子孫が産まれたので、そのお祝い。
過去1年に、男の子が生まれた女性、男の孫が産まれた女性は、ナルカタックの上から、大量のキャンディー、裁縫用具、高価な毛皮など様々なものを投げます。
投げられたお祝いの品を拾えるのは、60歳以上の女性のみ。
 ナルカタックの周りでは、普段、杖をついてよぼよぼ歩いているような女性が、毛皮を目指して、ものすごい勢いで走り回る姿を見ることができます。

2013/01/26

Yes or No

肯定する際に頷くのは、日本人もアメリカ人も一緒。同様に頭を横に振れば否定の意味になる。
地球上すべての人たちが、頷くことが肯定で、頭を横に振ることが否定の意味を持つわけではないとは思う。
エスキモーも、頷きは肯定で、首を横に振るのは否定なのだが…

10年以上前のこと。台所で夕飯の用意をしていると、当時10歳弱のその家の長女、Hがやって来た。
「晩御飯一緒に食べる?」
と聞いたが、彼女は何も答えず、ちょっと表情を変えただけで、そのまま自分の部屋へ戻って行った。
夕飯の準備ができると、Hは部屋から出てきて、一緒に食べていた。

その後も、自分が何かしているところへ顔を出したHに質問をしても、ちょっと表情を変えるだけで何も答えない。
「YesかNoくらい言えよ」
と何度も言うのだけれど、ちょっと顔の表情を変えるだけで反応はなかった。

それから数年。エスキモーの人たちと長く過ごしていて、ようやく気がついた。
実はH、自分の質問にきちんと答えていたのだった。

Yes、Noを示す動作は頷いたり頭を横に振ることだけではなかった。
エスキモーの人たちも普段の会話の中で頷くし、頭を横に振る。
しかし、表情を見ているとわかるのだが、頷きながら眉を上に上げ、頭を横に振りながら、しかめっ面をする。
何も言わず、頭も動かさず、静かに眉を上げる、しかめ面をするだけで、肯定、否定を示すことも多い。

あのとき、Hは一瞬眉を上げて「Yes」と言っていたのだった。一瞬しかめ面をして「No」と言っていたのだ。
その一瞬の表情の違いが、自分には理解できなかったのだ。

「No」というときにしかめ面になるので、慣れないと「断固拒否」という印象を受けるのだが、別にそんなことはない。
強い否定のときは、口で「No」と強く言うし、顔のしかめ具合も強く長くなるので、違いはよくわかる。

気がつけば自分も、眉を上げて、しかめ面をしてYes、Noをするようになっていた。困ったことに、そのクセが帰国後も抜けず、友人と会話の最中、何も言わず眉を上げている自分に気がついて、慌てて頷いてみたり。

アンカレジ在住のエスキモーの友人宅に、白人女性が遊びに来た。
友人が彼女に何か質問をすると、思いきり眉を上げながら「No」と言った。
あれ? YesなのかNoなのか? 何だこの違和感。白人が普通に喋っているんだから、Noなのだよな。
一瞬、混乱した。

ある年の夏、コツビュー(ここもエスキモーの町)に滞在中のこと。居候先の奥さんMが、一人旅をしていた真面目そうな日本人の若者を連れて来た(コツビューに日本人が来ることはあまりない)。
文法に乗っ取った綺麗な英語を喋る彼。ただし発音はローマ字読みの日本風なので、Mには全く聞き取れない。
「今、彼はなんて言ったの? 通訳してよ」
彼は一所懸命正しい英語を喋っているのに、通訳してよ、とは。文法めちゃくちゃの自分の英語の方が通じるとは…

そのうち、Mは生真面目そうな彼をおもちゃにし始めた。
「エスキモーのYesとNoを教えてあげる」
と、例の眉を上げる、しかめ面をする、を教えた。
しかし彼、あまり表情が豊かではない様子。眉を上げるのに相当苦労している。
Mは、普段、彼女が顔の産毛を抜くのに使っている鏡を持ち出し、これを見ながらやってごらんと、彼に渡す。
鏡を覗き込んで四苦八苦している彼の姿を見ながら大笑いしているMは、何も知らない日本人の若者をいじめているように見える。
「練習して、明日までにできるようにしておいて」
ホテルに戻る彼に、Mはそんなことを言っていた。

生真面目な彼は、その晩、バスルームで鏡とにらめっこしながら、ずっと練習していたそうだ。
翌日、彼は少し様になった「Yes」をしていた。顔がつりそうだ、と言いながら。
「今度コツビューに来たら、もっとうまくできるようになっているね」
と、M。

しかし、Mに懲りたのか、彼はそれっきりコツビューに戻ってくることはなかった。

2013/01/22

ポイントホープの日本人(2)

かつて、1960年代に明治大学の調査団がアラスカ各地の先住民の集落を尋ね、その研究成果を発表している。調査団はポイントホープにも滞在していて、当時の暮らし、猟についてを記録している。
昔、今は亡き友人ヘンリーが日本人に炊飯器をもらったというのは、このときのことかもしれない。

1976年4月30日、グリーンランドからアラスカのコツビューを犬ぞりで目指していた植村直己がポイントホープに立ち寄った。
そのときの様子は彼の著書「北極圏12,000キロ」に記されている。

クジラの猟の真っ最中の時期。彼が到着と同時にクジラが捕れた。
当時、捕鯨組のキャプテンの奥さんだったエイリーン(故人)は生前
「あの日本人はセイウチの皮を毛ごと食べちゃったのよ、お腹にいいとか言いながら」
と言っていた。
セイウチの皮は「コーク」と呼ばれ、普通は茹でてから、毛の生えた表皮をナイフで削ぎ落として食べる。ゼラチン質でぷりぷりとしていて茹でたてでも、冷めてからでもおいしい。セイウチの毛が、本当にお腹に良いのかどうかはわからない。
 「北極圏12,000キロ」にセイウチの肉を食べさせてもらったと言う記述がある。これはエイリーン言っていたセイウチの皮のことかもしれない。


(余談その1)
中学生の頃、文春文庫の植村直己の著作を愛読していて、繰り返し何度も何度も読みふけっていた。もちろん「北極圏12,000キロ」も。 
クジラ組の親方と猟に参加したこと。恐らく、この親方とは前述のエイリーンの旦那さん、ジョン・ティングックのことだろう。
ホッキョククジラことを「ガジャロワ」と呼ぶと書かれている。ところがポイントホープで、一度も「ガジャロワ」という単語を聞いたことが無い。もしかしたら自分が知らないだけなのかもしれないが。

コツビューから、初めてポイントホープを訪れることになるきっかけは、この本だった。コツビュー周辺の町で、唯一覚えていた町の名前が「ポイントホープ」だったのだ。

P曰く、
「ナオミの犬は大きかったよな」
植村直己がグリーンランドから連れて来たそり犬は、ポイントホープで使われていた犬よりもはるかに大きかった。
その頃ポイントホープでは、犬ぞりは廃れつつりあり、犬を飼っている家も多かったが、スノーモービルが普及しつつある時期だった。
「海岸に行ったら、今時珍しい犬ぞりがあったんで、なんだろうって思ったら、それがナオミだったんだよね」
とR。
 今では、覚えている人も少なくなってしまったが、当時のポイントホープでは、グリーンランドから犬ぞりでやって来た日本人の存在は、とても大きなニュースだったのだろう。
日本への短期の旅行から帰って来たばかりのQは(交換留学のようなものだったらしい) 、日本語で話しかけたところ「上手な日本語だね」と褒められたそうだ。
「あの犬たちは巨大で怖かったな」
 とも。

植村直己が滞在中の3日間で、クジラが8頭も捕れたと言う。クジラの猟期の2ヶ月間に5頭も捕れると大猟と言っている昨今と比べると、信じられないような話である。
それよりも解体のことを考えると、うんざりしそうだ。男たちは数日間、まったく寝ずに解体作業をしていたのではないだろうか。
以前、クジラ組のキャプテンを長く続けているJ(以下に出てくるJとは別人)と話をしていたとき、クジラが一度に何頭も捕れた年があり、海岸近くの氷の上はマクタック(クジラの皮)だらけになってしまったことがあったと言っていた。
普段だと自分の取り分のマクタックは大事に家に持ち帰るのだが、そのときはあまりに潤沢にマクタックがあったので、海岸に転がっているマクタックは、欲しい人が好きなように持ち帰っていたそうだ。
Jが言っていたのは、この年の話だったのかもしれない。

(余談その2)
先日、板橋区立「植村冒険館」へ北極圏12,000キロで使われていた犬ぞりが展示されていたので見に行ったところ、ポイントホープの写真が数枚展示してあった。
その中に、植村直己と一緒に画面に収まっている友人Pと思しき姿があった。今や50代のPがまだ10代だった頃の姿。
「ナオミと一緒にクジラの猟をしたんだよ」と言っていたことが、改めて事実だと知らされた写真だった。

自分が高校生のとき、植村直己がマッキンレーで遭難した。「冒険とは生きて帰ってくることだ」といい続けていた彼が山で行方不明となった。
それ以降、社会人となってアラスカへ行くようになるまで、植村直己とはなんとなく距離を置いて過ごしていた。
アンカレジで知り合ったアメリカ人の友人は、植村直己が遭難した際、捜索活動に協力をしたそうだ。その彼は
「あれは遭難ではなく、形を変えた自殺だろう」 
 と言っていた。
登山や探検の失敗が重なり、マスコミに追い詰められた責任感の強い植村直己は、自分のいる場所がないと感じるようになり、 山へ逃げてしまったのだろう、と。
その友人と話をしているうちに、遭難以降、ずっとどこかに引っかかっていた植村直己に対する距離感はなくなっていた。

星野道夫もクジラの猟を撮影するために、ポイントホープに滞在している。
当時、彼が居候していたいたのはJの家。ポイントホープの将来を担う若者として、Jの写真が彼の著作にでかでかと出ている。
当時、星野道夫の名前はそれほど知られておらず、日本人の若者が写真を撮りに来ている、程度に思っていたようだ。
ある日、PとJが話をしていた。
 「え? ミチオってそんなに有名な写真家だったのか?」
(ミチオ:発音は「ミシオ」に近い)
「そうらしいよ。日本じゃかなり有名だったらしい」
「じゃ、相当金持ってたんじゃないのか? でも、うちには食費も何も入れてくれなかったな」
「シンゴでさえ、食費ぐらい出してるぜ」
いや、毎年長期滞在していて、毎年ただ飯食っているわけにはいかないし。

「ミチオの部屋さ、すげー散らかってて、片付けろって言うと、ふらっといなくなっちゃうんだよ」 
申し訳ない。自分もいつも部屋は散らかしている。日本人は片付けない人たちだと思われていないことを望む。

「ミチオが作るチキンカレーはうまかったよな」
彼の著作や、奥さんの話によれば、星野道夫は、自分だけのこだわりのレシピを持っていたようで、特にうまいカレーを作っていたようだ。
自分が居候している家の家族もカレーが好きで、毎日でもカレーでいいと、言っているほど。市販のカレールーを使って適当に作るカレーなのに結構評判は良い。ただ、日本で同じ物を作っても、特に感動があるカレーではない。

星野道夫以降も、クジラ猟を取材に来たテレビ朝日や(滞在期間が短すぎて猟の取材はできず)、TBS「世界不思議発見」の取材班、NHKの取材班などがやって来た。
普段は温厚でもの静かで、のんびりした感じのP(前述のPとは別人)が取材班にガイドとして雇われた際には、顎で日本人のディレクターたちを使っていた。
女性タレントのガイド役としてテレビに映っていたPは、これまた普段は見られないような、機敏な動きを見せていた。
Pのあまりの変化に、画面を見ながら笑ってしまったのだった。

テレビ取材班が来ている際に、自分がその場にいることがある。
ディレクターに役に立ちそうも無い助言をすることはあれ(ホンダのレンタル料の相場なんぞ知らない)、彼らに取材をされることも無く、平穏に過ごしている(テレビに出ても喋ることはないし、喋れない)。

今のところ、テレビで放送されるポイントホープの情報は一過性で、記録としてはほとんど残らないのが現状なので(ビデオ化もないし再放送もされない)、多少の勘違いや間違いも笑っていられる。
ある程度残る媒体で、自分の思い込み、勘違い(あるいは間違い)をそのまま発表し、そのまま受け入れられてしまって、こりゃいかんだろ、というものがあるのも事実。
こういうのを見ていると、自分の家に土足で入り込まれた挙句、自分の家族について、世間に向けて好き放題言われているような気分になってしまう。

ポイントホープについて、何か書いたり作ったりする際は、一声かけていただければ、中身の確認くらいできると思いますよ。おそらくポイントホープ滞在期間が一番長い日本人なので、他の人よりは、多少ポイントホープのことを知っていると思うから。

※このページは敬称を略しております。

2013/01/12

仕事

今日、猟だけで自給自足をしているエスキモーはいないのではないだろうか(自分が知らないだけかもしれないが)。アラスカなどの原野で、好んで自給自足に近い暮らしをしているのは、ほとんど白人である。
弓矢を使わなくなってしまったので、猟をするためには弾丸が必要。犬ぞりを使わなくなってしまったので、移動の手段はガソリンが必要。大きくて広い家なので、アザラシやクジラの脂を使った石のランプでは、部屋を暖めることはできないので、電気や石油が必要。
そんなわけで、エスキモーと言えど生きて行くためには、現金が必要である。

ポイントホープに限らず、僻地の町では仕事は限られていて、定職に就いていない(就けない)人も多い。
定職に就いていなくても、年末に結構な額の配当が州などからあるので、節約して暮らせば、それなりに暮らして行けるはずだが、節約をしようという考えはあまりなさそうである。
もちろん、年末以外にも現金は必要なので、定職に就いていない人のために「仕事のための仕事」が、 町のネイティブコーポレーション(地元民が出資して作った会社)から出ることがある。

結婚したものの定職がなく、ぷらぷらしていたHは、ある日そんな仕事にありついた。
10日間程度の短期の仕事だったが、時給は確か40ドル(当時のレートで3500円程度)、1日8時間働いて320ドルという、日本では考えられないような日当だった。
 夕方、Hが仕事を終えて帰って来た。
「すげー疲れた」
「今日は何してたの?」
「1日中ポンプを見てた」
ツンドラの奥の水源池に続く町外れの未舗装の一本道。そこに雪解けでできた巨大な水溜り。その水溜まりの水を汲み出しているポンプを監視する、という仕事だそう。
「それって一人で見てるわけ?」
「いや、3人で」
「ポンプに燃料入れたりするんだろ?」
「いや、何もしない。ただ見てるだけ」
「それで疲れたとか言ってるなよな」
あまりにヒマだから、一日中、ツンドラを飛んでいる鳥に石を投げていた日もあったとか。
「散弾銃でも持って行けば、カモでも撃てたんじゃないの?」
「いや、仕事だから銃は無理」

そんなHも、数年後にようやく建物のメンテナンスを行う定職を得た。
えらく呑気な職場で、上司が見ていない間に、仲間同士で水の掛け合いをしてびしょぬれになってみたり、物陰に隠れて脅かしっこをしたり。
嬉しそうに相手にしたいたずらのことを語るHに対して
「おまえら、小学生か?」
と何度言ったことか。

ある日の昼休み、Hが職場から昼食を食べに帰ってくるべき時間。Hはベッドルームから出て来た。
「あれ、今日休み? 仕事行ってるのかと思ったよ」
「昨日の夜、眠れなくてさ、テレビ見てたら朝になっちゃって」
「で?」
「5時頃寝たら、今度は起きられなくて休んだ」
こんな調子で、意外と簡単に仕事をさぼっている。日本でそれをやると、すぐにクビだ。

その日の午後3時過ぎ。
「ベニア板余ってたよな」
とH。
「使いかけの大きいのが1枚あるよ」
「電動ドライバーは?」
「カニッチャック(玄関のホール)に置いてある」
「物置からネジを10本くらい持って来てくれる?」
「いいよ、何するの?」
「ちょっとRのところへ。まだ仕事は終わってないはずだし」
「はあ?」
「ま、いいからついて来いよ」

ということで、仕事をさぼったHと一緒に、ベニア板、電動ドライバー、ネジを持って、ホンダに乗ってHの同僚、Rの家に。

ドアをノックして中にRがいないことを確認。
「じゃ、そっち押さえておいて」
ベニア板をドア前に置くと、ドアの外枠に電動ドライバーでネジ止めし始めた。
「H、お前さあ、仕事さぼって何やってるんだよ」
「Rが家に入れないようにベニア板でドアをふさいでるんだよ」
「いや、そりゃ見ればわかるけど」

5分ほどで、ドアはベニア板でふさがれた。
「この間職場でRに水と小麦粉ぶっかけられたんだよ。その仕返し」
「仕事さぼっておいて、よくやるよな」


Rが帰宅するのは4時半過ぎのはず。
5時過ぎ。常にスイッチの入っている無線機からRの声が聞こえ始めた。
「誰がこんなことしやがったんだ? ぶっ殺してやる」
しばらく無線機から罵詈雑言が聞こえていたが、やがて静かになった。
無線機はどこの家にもあるので、町中の人たちがRの罵詈雑言を聞いている。しかし、なぜRが怒り狂っているのか、わかっているのは我々だけだったろう。

その日、仕事から帰ったRは、玄関がベニア板でふさがれているのを見つけ、電動ドライバーを探しに一度職場に戻った。しかし、そういう日に限って電動ドライバーはなく、やむを得ず手回しで10本ほどのネジを外して家に入ったのだそう。

エスキモーの人たちは冗談が好きで、よく冗談を言って笑っている。
相手が激怒する今回のようないたずらでも、HもRも、翌日にはお互いに笑いながら話していたそうだ。
深刻な失敗をしたとしても、数日後にはその失敗談を笑い話として笑い飛ばしている。
過酷な環境をも笑い飛ばせるような強靭な人たち、エスキモーとはそんな人たちだと自分は思っている。

2013/01/06

魚釣り


「魚釣りへ行くけど、一緒に行く?」
Hが声をかけて来た。
トンプソン岬の向こう、オゴトロック川(Ogotoruk Creek)でマス(アークティックチャー、ホッキョクイワナ)が釣れているらしい。釣り竿、ルアー、サンドイッチや飲み物を用意して、オゴトロック川を目指す。

空から見たオゴトロック川河口
これから向かおうとしているオゴトロック川は、かつて「チャリオット計画(Project Chariot)」という気違いじみた実験を行おうとしていた場所。

水爆の父と言われたエドワード・テラーが、オゴトロック川の河口部に水爆を使って海岸部を掘り込み、港を作ろうとした。
核爆弾で地面を掘り込んだらどうなるか。かつてソ連では、水爆で灌漑用の池を作ってみたものの、大量に発生した放射性物質のおかげで、使い物にならない池が出来上がった。
 ポイントホープ周辺に港を作ったところで、使い道は無い。嵐のための避難港を目的にしていたようだが、この付近を航行する大型船は夏にやってくるバージ(貨物船)程度。1年の半分以上を氷に閉ざされるこの付近に港を作るのはほとんど意味のないこと。
ただ、テラーが自分の欲求を満たしたいだけだった。

このチャリオット計画の一環で、放射性物質を埋めて何らかの実験を行ったとか、いまだに放射性物質が埋められているとか、様々な噂があるが、この先、ポイントホープの人たちが合衆国政府から真実を知らされることは無いだろう。

チャリオット計画は、ポイントホープのダニエル・リズバーンが中心となった反対運動によって、中止となった。
ダニエル・リズバーン、当時(2000年)、既に故人だったが一緒に釣りに来たHの母方の祖父である。

トンプソン岬の広い丘の上をホンダで走って行くと、広大なオゴトロック渓谷が見えてくる。
急な斜面を下って川の右岸へと降り、小さな流れをいくつか越えながら河口へと向かう。
放置された軍用車両
河口付近の右岸側の海岸段丘の上には、何軒かの小屋が建ち、小屋の前には軍用車両の残骸が数台放置してある。小屋は軍の宿舎だったものらしい。
小屋の背後にはトンプソン岬の大きな丘がそびえている。左岸側はよく見えないが、どうやら滑走路があるようだ。
河口部は海岸段丘になっていて、急な斜面を降りれば、海岸の砂浜へと降りられる。
どこかの本に「岸壁」という書き方をしていたが、オゴトロック川の河口部には、海岸段丘はあるものの、岸壁は無い。

川を見れば、魚の群れが引き起こす小さなさざ波が見えている。

「シンゴはこの竿使って」
渡されたのは、コンパクトロッドという、たたむと30cmほど、延ばしても1m程度の小さな竿と、見るからにちゃちな小さなリール。釣り糸だけはやたらと太いものが巻いてあり、どんな魚が掛かっても切れることはなさそうだ。
しかし、これに大型のサケやマス用のルアーを付けて投げると、すぐにすべての糸が出てしまうほど、わずかな糸しか巻かれていない。
ちなみにHは普通の竿とリール。

何種類かルアーを使ってみた結果、メップスのサイクロプスというルアーのオレンジ色が良いとわかった(アラスカではどこでも売っている普通のルアー)。
河口付近とはいえ川幅は狭く、ルアーを投げると対岸に届いてしまうこともある。そしてその状態で糸はすべて出てしまっている。そこをうまく調整しながら竿を振る。
Hが一投ごとに魚を上げ始めた。
こちらのルアーにも同じように魚が掛かり始めたが、魚を外すのに手こずっていると
「早くしろ、魚がいなくなってしまうぞ」
なぜか焦っているH。

そうこうしているうちに、やたらと重い魚が掛かった。リールのドラッグを締め上げても、小さいリールなので空回りして動かない。魚を弱らせてから岸に寄せて引き上げるのが、テレビで見た釣りの手法のようだが、糸はすべて出てしまっているし、竿もおもちゃのようで折れてしまいそう。魚を弱らせている余裕はなさそうなので、Hを呼んだ。
「しょうがないからそのまま引きずり上げよう」
糸が切れないように気をつけながら、竿を水平にしてずるずると魚を岸に引き寄せる。自分はどんどん川から離れて行き、魚はどんどん岸へと近づいてくる。
しばらくすると魚が岸に上がったらしく、近くに転がっていた木の棒でHが魚の頭をひっぱたいている。

釣れたマス
そばに行ってみると、それは全長80cmもある巨大なマスだった。
「でかいなあ。こんなでかいの始めて釣ったよ」

その後も釣り続け、二人で76尾。自分の釣ったマスが今回、最大の獲物だった。

釣りに夢中になり、膀胱がすっかり満タンになっていた。ジーンズのジッパーのタブをつまもうとしたが、冷たい水と空気ですっかり冷えきってしまった指先は思い通り動かず、タブをつまむことができない。
このままでは漏らしてしまう、かなり焦り始めたころ、どうにかタブをつまんで開けることができた。
これから寒いところへ行くときは、簡単に脱げるズボンを履くようにしよう。

軍の宿舎跡
冷えきった身体を温めるべく、あとから釣りにやって来た人たちとともに、数件残っていた小屋のひとつに入り、中で火をおこした。
閉め切った暗い小屋。焚き火の赤い光に中にいる人たちの顔が照らし出される。
誰かがマリファナを吸い始めた。げほげほとむせる音が狭い小屋の中に響き渡る。枯れ葉が燃えるような独特の匂いが漂い始め、匂いで気持ち悪くなってくる。自分もラリってしまったらどうしよう、などと考えていたが、匂いが気持ち悪いだけで、何も起こらなかった。

身体が温まったところで、それぞれ帰途につく。
凹凸の激しいツンドラを走っているうちに、大量の魚の入った袋から魚がこぼれ落ちそうになっている。
ホンダを止めて荷物を縛り直して、家に戻り、改めて魚の数を数えると、75尾になっていた。
「ツンドラに魚が落ちてるの見つけたら、みんなびっくりするだろうね」
 釣って来た魚の半分以上をお年寄りや近所に配り、残りは冷凍庫へ。
自分の釣った最大の1尾を輪切りにして、塩こしょうをかけてオーブンで焼いて食べた。もちろん、うまいに決まっている。


我々の釣果を聞いた人たちが、翌日、オゴトロック川へ釣りに出かけたが、1尾も釣れなかったそうだ。

現在、オゴトロック川の河口部の軍の施設跡は、綺麗に整地され、避難小屋として小屋が1軒残されたのみで、かつて放置されていた軍用車両も無く、更地になってしまっている。
2000年に釣りに来て以降も、何度もカリブー猟などでこの付近を訪れることがある。
もし、ここで核爆弾が爆発していたら、この付近で一切の猟ができなくなるどころか、ポイントホープやここからさほど遠くないキヴァリナという町も、人が住むことはできなくなっていただろう。

 チャリオット計画についてはDan O'Neill氏の「the firecracker boys」という本が詳しい(洋書)。
日本国内で出版されている和書で、チャリオット計画について触れている本のほとんどは(全く引用先を触れていないが)、ほぼ、この本からの引用である。

2013/01/05

初めてのポイントホープ

この話は、たいそう古い話なので、加筆修正が多々加わる可能性があります。写真はそのうち載せたいですが、あくまでも希望です

今から20年ほど前、1993年8月の終わり頃。アラスカでは秋が始まっていた頃。アンカレジからジェット機で行けるエスキモーの町、コツビュー(英語の発音に近い書き方だと「カッツブー」)の海岸でキャンプをしていた。コツビューは人口は3,000人ほどの北極圏にある町だ。

キャンプをしていたコツビューの空港の南側の海岸には、サケを捕るためのフィッシュキャンプのためのテント村があった。その一角に自分の小さなテントをはらせてもらい、近所の人たち(エスキモー、白人)と、片言の英語でやりとりしながら食事をご馳走になったり、一人でツンドラの薮の中へ歩いて行き、一時の探検ごっこをしてみたりしていた。
コツビュー滞在もそれなりに楽しいのだが、飛行場の周りに何軒かあるコツビュー周辺の町へと飛行機を飛ばしている飛行機会社の建物を見ているうちに、もう少し小さな町も見てみたいと思うようになった。

よくわからないまま、尾翼にホッキョクグマの絵が描いてあるケープスマイス航空の事務所に入り、カウンターの上に置いあった時刻表を貰ってきた。
時刻表には聞いたことのない町の名前がずらりと並んでいる。順番に見て行くと、その中に唯一知っている名前があった。
「ポイントホープ」
中学生の頃、何度も何度も読み返した植村直己氏の著作「北極圏1万2千キロ」に登場した町の名前。グリーンランドからコツビューまで、犬ぞりで旅をした際に立ち寄り、一緒にクジラ猟をした町。その文庫本にクジラが氷の上に転がっている不鮮明な白黒写真が載っていたことを覚えていた(実はそんな写真は出ていなかった。他の書籍載っていた写真の勘違いだと思われる)。
「とりあえず、ポイントホープに行ってみよう」
ケープスマイスの事務所に戻り、ポイントホープのことは何もわからないまま、片言の英語で、翌日のフライトを予約した。

翌日の午後、コツビューを飛び立った数人乗りの小型のプロペラ機。初めて乗る小型機にワクワクしつつ、窓に広がる北極の海岸線やツンドラの大地に見入っていた。
ツンドラの大地が海へと落込む断崖絶壁が続いてい場所で飛行機が高度を落として旋回する。パイロットは副操縦席に座っている一般人と思しき人と何かを話している。
当時はここがどこで、何のために旋回をしているのかわからなかったが、そこは、その後何度も訪れることになるトンプソン岬。そして飛行機は時期的にその付近にやってくるであろう、カリブーの群を探していたのだと思う。

トンプソン岬を過ぎて間もなく、コツビューから1時間ほどで北極海に突き出した砂州の先にある小さな町、ポイントホープが見えて来た。いかにも「地の果て」の様な場所だった。
飛行機の窓から見える海岸には、所々にテントが建ち、わだちのようなものも見える。海岸にテントを張れそうだな、そんなことを考えているうちに、飛行機は次第に高度を下げ、町外れの滑走路へと着陸した。

飛行場には物置小屋のような今にも壊れそうな建物が一軒建っているだけで、他には何もなかった。
途方にくれているとひとりの女性が声をかけてきた。Dと名乗るその女性は、ケープスマイスのポイントホープでの代理店をやっているとのこと。
「これからどこへ行くの?」
「海岸でキャンプしようと思ってます」
「南の海岸? それとも北の海岸?」
何も考えていなかったが、飛行機からずっと見えていたのが南の海岸だったし、南の方が明るい様な気がしたので南の海岸と答える。
「だったらホンダで送ってあげるわよ」
「HONDA」ホンダで作っている4輪のバイク状のATV(All Terrain Vehicle:全地形型車両、4輪バギー)という乗り物。日本語ではホンダだが、英語で言われると「ハンダ」と聞こえる。何のことやらわからず、この乗り物を「ハンドル」と呼んでいるのかと思ったほど、ヒアリングの力はなかった。

「あなた、いつまでこの町にいるの?」
「3日後の飛行機で帰ります」
「それじゃ3日後に迎えに来てあげるね」
町の南側の海岸、放置された白いアルミのボートの脇に降ろしてもらい、彼女と別れた。

テントを張り終えると、時間は既に夕方6時前。腹が減っているが、夕飯を作ろうにも真水がない。店があるに違いないと、水を買いに町へと向かう。
小さな町ゆえ、意外とあっけなく店は見つかったが、既に閉店しているらしい。偶然店から出てきた男に、水が欲しいと訴えると、店内に案内してもらえ、1ガロン(3.8リットル)の大きなボトルを手に入れることができた。

テントに戻り、アンカレジで買ったパンとインスタントスープで、テントの外で海を見ながら晩飯にした。
食事が済んでもまだ明るいので、自分のテントや付近に転がっている白骨化したアザラシのものらしき骨や、風景などの写真を撮りまくる。
今となっては珍しくも何ともない、海岸のあらゆるゴミが、当時は珍しくて仕方なかった。

深夜0時頃、そろそろ寝ようかと思っていると、海岸の砂利を踏みしめる音と子どもの声が聞こえてきた。
「ここで何してるの?」
「どこから来たの?」
「どうやって来たの?」
小学校3〜5年生くらいの男女数名がテントの前に現れ、質問の嵐。
子どもたちの顔つきは、日本人の子どもとほとんど一緒で、着ているものも日本人とそれほど変わりがないので、彼らが英語を喋っているの様子を見ると、まるで日本人の子どもが英語を喋っているようで、不思議な感じがした。

「私の名前、日本語だとどう書くの?」
耳で聞いただけでは、どんな名前かわからないので紙に英語で書いてもらい、それからカタカナで書いて上げると、大喜び。
そのうち飽きたのか、町の方へと帰って行った。

翌朝、ゆっくりと起き(朝寝をして)、朝食を食べてから、町を見物に行く。
町中は、木造の普通の家が立ち並ぶ。主な道路は舗装されていて、ピックアップトラックや、ワゴン車、ホンダが町中を走り回っている。
巨大な高床式の建物が町の中心に建っている。これは学校らしい。
町中で出会う人たちは、毛皮のフードのついた綺麗なジャケットを着ている女性やアンカレジあたりで売っていそうなありふれた防寒着を着ている人まで様々。

昨夜、水しか買わなかった店に行って見ることに。
「ポイントホープ・ネイティブストア」それが店の名前。
日本の田舎にある個人経営のちょっと大きめのスーパーという感じだろうか。野菜、冷凍食品、薬など、一通りのものは置いてある様子。エスキモーの食べ物、例えばアザラシなどが置いてあるかと思っていたが、そういうものは一切置いていなかった。

店内を一回りして、外へ出て、さてこれからどうしよう? と入口のところで考えていると、一人の女性が声をかけて来た。
簡単に自己紹介をして、レストランや喫茶店があるか聞いてみたが、そういうものは一切無いという。
話をしているうちに、一緒に昼ご飯を食べないか? と言っているらしいことに気がついた。
なぜ初対面で見ず知らずの自分に対してそんなことを言ってくれるのか謎だったが、悪い人でもなさそうなので着いて行って見ることにした。

ホンダの後ろに乗ってたどり着いた彼女の家の周りは、ゴミともなんとも言い難いものが散乱していて、雑然としている。家の中も雑然としていて、チワワが走り回っている。壁には大小様々な写真。これがエスキモーの家なんだろうか?
彼女の名前はE。今は一人暮らしをしているらしい。
「そういえば、あんたの名前はなんだっけ?」
と何度か聞かれる。初めて聞く日本語の名前では、中々覚えられないだろう
「シンゴだよ。音的にはビンゴに似てるよね」
「シンゴビンゴシンゴビンゴ… よし、覚えた」

Eが昼ご飯にご馳走してくれたのは冷凍食品のフライドチキンだった。
食後、彼女が海岸や昔の家のあるあたりで見付けたという、古い石の鏃(やじり)や、セイウチの牙製の古い道具などを見せてくれた。日本だと2000年以上前に使われていた石器だが、この付近では数百年ほど前まで使われていたものだそう。そんな博物館に入っていても良さそうな遺物が、Eの家の戸棚や袋に入れて保存されていた。

Eは午後から仕事だが、明日は休みなので、ホンダでどこかへ連れて行ってくれるという。そしてテントまで迎えに来てくれるとのこと。
昼食後、Eは再び仕事へ出かけて行ったので、町を少し歩いたあとテントへ戻ると、中が荒らされていて、日記や懐中電灯などがなくなっていた。
入り口に鍵をかけていたが、ベンチレーター(換気口)から手を突っ込まれてものを盗られたらしい。

落胆していると再び子どもたちがやってきたので、物を盗られたことを説明すると、何名かの名前を上げていたが、それが誰なのかわかるはずもない。
警察に言うのか? と聞かれたけれど、金目のものは盗られていないし、大した被害でもないので、言うつもりはなかった。ただ、この旅をずっと記録している日記だけは返して欲しかった(後でテントからさほど遠くない場所に落ちているのを見つけた)。

夜。昨晩同様、何度か子どもたちの襲来があった。
かなり太った15歳くらいの女の子が、大きなジップロックに入った大量の冷凍キイチゴをくれた。サーモンベリーというキイチゴだそう。よく見れば色といい形といい、サケの卵によく似ている。
サーモンベリーをくれた女の子の名前は聞いたはずなのに覚えていないし、顔もよく覚えていないので、今となってはあれが誰だったのか、知る由もなく、なぜ彼女がサーモンベリーをくれたのかは謎のままである。

夜も遅くなり、子ども相手で疲れたので寝袋に入って寝ようとしていると、海岸の砂利を踏みしめる音が聞こえてくた。
また、子どもが来たのか、今回は無視しよう、と思って寝たふりをしていた。しかし聞こえて来たのは大人の女性の声。
何事だろう、とテントから顔を出す。
「昨日から海岸のテントで寝ている外国人がいて、子どもたちにいじめられているって息子が言うから見に来たの」
多分、そんなことを言ったのだ、と思った。とにかくヒアリング力はない。
ふと見れば、傍にトラックが止まっている。気がつかなかったが、彼女はトラックでテントの脇にまで来ていたのだった。
「よかったらうちに来ない?」
そんな風に言われたような気がした。
「この間もイスラエルからのお客さんが来ていたし、遠慮しなくていいのよ」
と言ったらしい。
ここまでを理解するのに身振り手振りを交えて、かなり必死な状態だった。
トラックの荷台にテントや荷物を放り込み、彼女の家に向かった。

彼女の名前はe、家には旦那さんのPと昼間、海岸で遊んだ男の子が2人リビングで毛布にくるまってテレビを見ていた。そして3歳くらいの女の子と1歳くらいの赤ちゃん。
エスキモーの家とはいえ、特に変わった家ではなく、普通のアメリカ人の家といった感じ。いや普通のアメリカ人の家を知らないので、何を持って普通と言っていいのかわからない。
大きなバスルームにあるトイレはバケツに便座が付いたものだった。それくらいがいわゆる普通の家と違う思われるところ。

英和和英辞典を片手に身振り手振りで話しをした。
何歳に見えるか、と言うので、中学生くらいの男の子が2人もいるのだから、40歳くらいか、と思ったら、1人は息子Hの友だちだった。そしてeとPの年齢は30代前半。自分と10歳も離れていなかった。
しかし、いずれこの夫婦を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼ぶことになろうとは。そして、当時中学生だったHのことを兄弟と呼び、彼が結婚して住んでいる家に居候することになろうとは思いもしなかった。

寝るために貸してもらった息子の部屋は、壁も天井も、プロバスケットボール選手のポスターで埋め尽くされていた。中でも多いのはシカゴブルズのマイケル・ジョーダン。
マイケル・ジョーダンに見つめられ、北側の窓から射し込む太陽の光を浴びながら眠りについた。

翌日、eとPに昔の町があった空港の西側へと連れて行ってもらった。クジラのあごの骨で骨組みを作り、芝土で覆った家。木造の建物の周りに芝土を積み上げて断熱材代わりににしている家。
1970年代に高潮による被害を避けるため、現在の町に集団移住してしまったので、ここに住んでいる人はいないという。

家に戻って写真を見せてもらったりしながらくつろいでいると、Eがやってきた。
「やっと見つけたわよ。探したんだからね」
昨日の約束を忘れておらず、町中を探し回ってくれていたようだった。
「暖かいジャケット持ってる?」
eが言う。
その時、自分が着ていたのは、薄い雨ガッパで保温性はない。
Hが着ているというエスキモーのジャケットを出して来て貸してくれた。
ファスナーの無いプルオーバー式の毛皮(羊)のジャケットで、首周りが少々小さくて首を出すのは大変だったが、着てしまえば特に問題はなさそう。
そのジャケットを着て、どこへ行くのかわからないまま、Eのホンダの後ろに乗って出発した。

海岸の砂利道を全速で走り続けるE。振り落とされたら首の骨が折れて死んでしまうな、そんなことを考えてしまうくらいスピードを出しているように当時は感じていた。しかし、当時のホンダは排気量が小さく、さらに二人乗りだったので、それほどスピードは出ていなかったのではないかと思う。
ポイントホープに来るときに、飛行機から見ていた海岸線を逆方向へと走った。右手に海。左手にはツンドラの丘や湖が現れる。

途中「ピングッチャック」と呼ばれる場所で休憩。
海岸段丘を上がってすぐの場所には、古い建物の跡とおぼしきクジラの骨が地面から突き出していた(今は段丘が崩れてしまい、住居跡はもうない)。
段丘の上のツンドラを歩いていると、USGS(米国地質調査所)が地図を作る際に使用している測量用の杭が目印として地面に突き刺してある。
「ここも誰かの土地になのよねえ」
目印を見ながら、つぶやくように言うE。
エスキモーが自由に猟をしていた土地が、誰かに「杭」を打たれ、彼らのものではなくなってしまい嘆いている、そんな風に感じていた。
しかし、ポイントホープ周辺の海岸には、かなり密に所有権がある(これを知ったのは、つい最近のこと)。あのとき、Eはこの場所がアメリカの土地になってしまったことを嘆いていたのではなく「ここもポイントホープの誰かの持ち物なのよね」と、自分に言い聞かせるようつぶやいていただけだったのだと思う。

さらに東へ向けて進んで行くと、彼方に見えていた断崖絶壁がどんどん近づいて来る。
海岸にホンダを止めて、段丘をのぼると、北に向かって広がるツンドラの先に、気持ち良さそうなツンドラの丘陵地が広がっている。
「あそこに丘がみえるでしょう? あの丘の上に気持ちのよいトレイルがあるから連れて行ってあげたいんだけど、ガソリンが無いから今回はちょっと無理ねえ」

そこから数100m走ると、きれいな水が海へと流れ込んでいる場所にたどり着いた。
目の前には、巨大な崖。
 イスックと呼ばれるその場所は、トンプソン岬の丘へと上がって行くトレイルの入口でもあった。
人々はこのトレイルを通って、トンプソン岬の向こうへと獲物を探しに行くのだそう。

「何か容器を持ってくればよかったねえ」
イスックの水は美味しい水なので、ポイントホープの人たちは、わざわざここまで汲みに来るのだそう。
(当時、既にポイントホープに水道は普及していたものの、水源はツンドラの池で、その水を濾過消毒して使っているため、それほど美味しい水ではない。各家庭に浄水器が普及する10年ほど前までは、タンクやバケツを持ってここまで水を汲みに来たり、雨水を飲用に使っていたが、今では浄水器が普及したので、わざわざ水を汲みに来ることはなくなった。)

イスックにて。今では信じられないくらい細いE
流れの脇には、誰かが火をおこした跡の横にカリブーのあごの骨の一部が落ちていた。こんなどうでも良さげなゴミの様な骨でさえ当時は珍しく、Eに見つからないように、こっそりとポケットへ入れた。いつかまた、この場所に帰って来ようと思いながら(その後、その骨はゴミになった)。

流木に腰を下ろして、煙草を吸いながら、話をしたが、覚えていることは「馬」と「ウーマ」について。ウーマとは自分の配偶者と同じ名前の人のこと。日本語で同じ発音だと「馬」のことだよ、と。

振り落とされる恐怖を感じながら、 町に戻り、ポイントホープで最も特徴的な場所、墓地に案内してもらった。
墓地はクジラのあごの骨で周りを囲まれ、その中にいくつもの十字架が立っている。アラスカのエスキモーを紹介する本にはよく出て来る場所だ。
十字架の中に、新しくて大きい二つの十字架がひとつになったものがあった。
「これは私の双子の娘の墓」
 つい最近、ホンダの事故で亡くなったのだという。
日本語でさえ、そんなときにどのような言葉をかけてよいのかわからないのに、英語力の無い当時は、本当に何も言えなかった。
大声で笑い、冗談ばかり言っているEからは、想像もつかなかったが、そんなことがあったとは。

家まで送ってもらった別れ際、太陽の位置を見ながら
「今は5時20分くらいかな」
というE。
腕時計を見るとまさに5時20分。
エスキモーってすごいな、いやEがすごいんだろうか。

eの旦那さんPとともに、彼のお父さん(育ての父)とお母さんの家に。家に入ると、何か独特の匂いがしていた。今になって思えば、それはシールオイルの匂い。
最近の若い人の家では、シールオイルの匂いを嗅ぐことはほとんどなくなってしまっているが、今でも、お年寄りの家のドアを開けるとシールオイルの匂いがすることがあり、何となくほっとする。
Pのお父さんは、クジラ猟のキャプテンをしているという。クジラに撃ち込む銛を見せてもらった。太い木の柄に真鍮の先端部。非常に重く、よくこんなものを投げられるものだと思う。
Pに、父親を継いでキャプテンになるのか?と聞くと、はにかみながら「まだわからない」答えていたが、それから10年ほどでPはキャプテンになった。

翌日はポイントホープ最終日。午後の飛行機でコツビューへと戻る。
学校で働いているというeに学校へ連れて行ってもらった。
教室へ入ると、海岸のテントへ遊びに来た子どもたちの姿が見える。
「日本の話をして」
と先生に言われるが、英語は聞くのも喋るのも悲しいくらいできない。どうしようかと思っていると、子どもの一人が
「ぼくの名前、日本語だとどうなるの?」
というので、黒板に名前を書いてもらい、それをカタカナに。先生的には問題があるかもしれないけれど、子どもには喜んでもらえた。

いよいよポイントホープを去る時間が近づいて来た。
eが別の場所で仕事をしているEを探し出してくれ、お別れのハグをする。
どうでもよいことだが、この頃のハグは、慣れていなくて腰が引けていた。
「また、遊びにおいで」
eと腰の引けたハグをして飛行機に乗り込む。

離陸した飛行機は、Eと走った海岸の上を飛んで行く。
様々な人たちとの出会いに感謝しながら、感傷的な気分になって行く。来年もまた、この町の人たちに会いに来よう、そう思った。

自分がこのあと、20年以上に渡って毎年のようにポイントホープに通うようになるとは、そのときは思いもしなかった。