2013/01/26

Yes or No

肯定する際に頷くのは、日本人もアメリカ人も一緒。同様に頭を横に振れば否定の意味になる。
地球上すべての人たちが、頷くことが肯定で、頭を横に振ることが否定の意味を持つわけではないとは思う。
エスキモーも、頷きは肯定で、首を横に振るのは否定なのだが…

10年以上前のこと。台所で夕飯の用意をしていると、当時10歳弱のその家の長女、Hがやって来た。
「晩御飯一緒に食べる?」
と聞いたが、彼女は何も答えず、ちょっと表情を変えただけで、そのまま自分の部屋へ戻って行った。
夕飯の準備ができると、Hは部屋から出てきて、一緒に食べていた。

その後も、自分が何かしているところへ顔を出したHに質問をしても、ちょっと表情を変えるだけで何も答えない。
「YesかNoくらい言えよ」
と何度も言うのだけれど、ちょっと顔の表情を変えるだけで反応はなかった。

それから数年。エスキモーの人たちと長く過ごしていて、ようやく気がついた。
実はH、自分の質問にきちんと答えていたのだった。

Yes、Noを示す動作は頷いたり頭を横に振ることだけではなかった。
エスキモーの人たちも普段の会話の中で頷くし、頭を横に振る。
しかし、表情を見ているとわかるのだが、頷きながら眉を上に上げ、頭を横に振りながら、しかめっ面をする。
何も言わず、頭も動かさず、静かに眉を上げる、しかめ面をするだけで、肯定、否定を示すことも多い。

あのとき、Hは一瞬眉を上げて「Yes」と言っていたのだった。一瞬しかめ面をして「No」と言っていたのだ。
その一瞬の表情の違いが、自分には理解できなかったのだ。

「No」というときにしかめ面になるので、慣れないと「断固拒否」という印象を受けるのだが、別にそんなことはない。
強い否定のときは、口で「No」と強く言うし、顔のしかめ具合も強く長くなるので、違いはよくわかる。

気がつけば自分も、眉を上げて、しかめ面をしてYes、Noをするようになっていた。困ったことに、そのクセが帰国後も抜けず、友人と会話の最中、何も言わず眉を上げている自分に気がついて、慌てて頷いてみたり。

アンカレジ在住のエスキモーの友人宅に、白人女性が遊びに来た。
友人が彼女に何か質問をすると、思いきり眉を上げながら「No」と言った。
あれ? YesなのかNoなのか? 何だこの違和感。白人が普通に喋っているんだから、Noなのだよな。
一瞬、混乱した。

ある年の夏、コツビュー(ここもエスキモーの町)に滞在中のこと。居候先の奥さんMが、一人旅をしていた真面目そうな日本人の若者を連れて来た(コツビューに日本人が来ることはあまりない)。
文法に乗っ取った綺麗な英語を喋る彼。ただし発音はローマ字読みの日本風なので、Mには全く聞き取れない。
「今、彼はなんて言ったの? 通訳してよ」
彼は一所懸命正しい英語を喋っているのに、通訳してよ、とは。文法めちゃくちゃの自分の英語の方が通じるとは…

そのうち、Mは生真面目そうな彼をおもちゃにし始めた。
「エスキモーのYesとNoを教えてあげる」
と、例の眉を上げる、しかめ面をする、を教えた。
しかし彼、あまり表情が豊かではない様子。眉を上げるのに相当苦労している。
Mは、普段、彼女が顔の産毛を抜くのに使っている鏡を持ち出し、これを見ながらやってごらんと、彼に渡す。
鏡を覗き込んで四苦八苦している彼の姿を見ながら大笑いしているMは、何も知らない日本人の若者をいじめているように見える。
「練習して、明日までにできるようにしておいて」
ホテルに戻る彼に、Mはそんなことを言っていた。

生真面目な彼は、その晩、バスルームで鏡とにらめっこしながら、ずっと練習していたそうだ。
翌日、彼は少し様になった「Yes」をしていた。顔がつりそうだ、と言いながら。
「今度コツビューに来たら、もっとうまくできるようになっているね」
と、M。

しかし、Mに懲りたのか、彼はそれっきりコツビューに戻ってくることはなかった。

2013/01/22

ポイントホープの日本人(2)

かつて、1960年代に明治大学の調査団がアラスカ各地の先住民の集落を尋ね、その研究成果を発表している。調査団はポイントホープにも滞在していて、当時の暮らし、猟についてを記録している。
昔、今は亡き友人ヘンリーが日本人に炊飯器をもらったというのは、このときのことかもしれない。

1976年4月30日、グリーンランドからアラスカのコツビューを犬ぞりで目指していた植村直己がポイントホープに立ち寄った。
そのときの様子は彼の著書「北極圏12,000キロ」に記されている。

クジラの猟の真っ最中の時期。彼が到着と同時にクジラが捕れた。
当時、捕鯨組のキャプテンの奥さんだったエイリーン(故人)は生前
「あの日本人はセイウチの皮を毛ごと食べちゃったのよ、お腹にいいとか言いながら」
と言っていた。
セイウチの皮は「コーク」と呼ばれ、普通は茹でてから、毛の生えた表皮をナイフで削ぎ落として食べる。ゼラチン質でぷりぷりとしていて茹でたてでも、冷めてからでもおいしい。セイウチの毛が、本当にお腹に良いのかどうかはわからない。
 「北極圏12,000キロ」にセイウチの肉を食べさせてもらったと言う記述がある。これはエイリーン言っていたセイウチの皮のことかもしれない。


(余談その1)
中学生の頃、文春文庫の植村直己の著作を愛読していて、繰り返し何度も何度も読みふけっていた。もちろん「北極圏12,000キロ」も。 
クジラ組の親方と猟に参加したこと。恐らく、この親方とは前述のエイリーンの旦那さん、ジョン・ティングックのことだろう。
ホッキョククジラことを「ガジャロワ」と呼ぶと書かれている。ところがポイントホープで、一度も「ガジャロワ」という単語を聞いたことが無い。もしかしたら自分が知らないだけなのかもしれないが。

コツビューから、初めてポイントホープを訪れることになるきっかけは、この本だった。コツビュー周辺の町で、唯一覚えていた町の名前が「ポイントホープ」だったのだ。

P曰く、
「ナオミの犬は大きかったよな」
植村直己がグリーンランドから連れて来たそり犬は、ポイントホープで使われていた犬よりもはるかに大きかった。
その頃ポイントホープでは、犬ぞりは廃れつつりあり、犬を飼っている家も多かったが、スノーモービルが普及しつつある時期だった。
「海岸に行ったら、今時珍しい犬ぞりがあったんで、なんだろうって思ったら、それがナオミだったんだよね」
とR。
 今では、覚えている人も少なくなってしまったが、当時のポイントホープでは、グリーンランドから犬ぞりでやって来た日本人の存在は、とても大きなニュースだったのだろう。
日本への短期の旅行から帰って来たばかりのQは(交換留学のようなものだったらしい) 、日本語で話しかけたところ「上手な日本語だね」と褒められたそうだ。
「あの犬たちは巨大で怖かったな」
 とも。

植村直己が滞在中の3日間で、クジラが8頭も捕れたと言う。クジラの猟期の2ヶ月間に5頭も捕れると大猟と言っている昨今と比べると、信じられないような話である。
それよりも解体のことを考えると、うんざりしそうだ。男たちは数日間、まったく寝ずに解体作業をしていたのではないだろうか。
以前、クジラ組のキャプテンを長く続けているJ(以下に出てくるJとは別人)と話をしていたとき、クジラが一度に何頭も捕れた年があり、海岸近くの氷の上はマクタック(クジラの皮)だらけになってしまったことがあったと言っていた。
普段だと自分の取り分のマクタックは大事に家に持ち帰るのだが、そのときはあまりに潤沢にマクタックがあったので、海岸に転がっているマクタックは、欲しい人が好きなように持ち帰っていたそうだ。
Jが言っていたのは、この年の話だったのかもしれない。

(余談その2)
先日、板橋区立「植村冒険館」へ北極圏12,000キロで使われていた犬ぞりが展示されていたので見に行ったところ、ポイントホープの写真が数枚展示してあった。
その中に、植村直己と一緒に画面に収まっている友人Pと思しき姿があった。今や50代のPがまだ10代だった頃の姿。
「ナオミと一緒にクジラの猟をしたんだよ」と言っていたことが、改めて事実だと知らされた写真だった。

自分が高校生のとき、植村直己がマッキンレーで遭難した。「冒険とは生きて帰ってくることだ」といい続けていた彼が山で行方不明となった。
それ以降、社会人となってアラスカへ行くようになるまで、植村直己とはなんとなく距離を置いて過ごしていた。
アンカレジで知り合ったアメリカ人の友人は、植村直己が遭難した際、捜索活動に協力をしたそうだ。その彼は
「あれは遭難ではなく、形を変えた自殺だろう」 
 と言っていた。
登山や探検の失敗が重なり、マスコミに追い詰められた責任感の強い植村直己は、自分のいる場所がないと感じるようになり、 山へ逃げてしまったのだろう、と。
その友人と話をしているうちに、遭難以降、ずっとどこかに引っかかっていた植村直己に対する距離感はなくなっていた。

星野道夫もクジラの猟を撮影するために、ポイントホープに滞在している。
当時、彼が居候していたいたのはJの家。ポイントホープの将来を担う若者として、Jの写真が彼の著作にでかでかと出ている。
当時、星野道夫の名前はそれほど知られておらず、日本人の若者が写真を撮りに来ている、程度に思っていたようだ。
ある日、PとJが話をしていた。
 「え? ミチオってそんなに有名な写真家だったのか?」
(ミチオ:発音は「ミシオ」に近い)
「そうらしいよ。日本じゃかなり有名だったらしい」
「じゃ、相当金持ってたんじゃないのか? でも、うちには食費も何も入れてくれなかったな」
「シンゴでさえ、食費ぐらい出してるぜ」
いや、毎年長期滞在していて、毎年ただ飯食っているわけにはいかないし。

「ミチオの部屋さ、すげー散らかってて、片付けろって言うと、ふらっといなくなっちゃうんだよ」 
申し訳ない。自分もいつも部屋は散らかしている。日本人は片付けない人たちだと思われていないことを望む。

「ミチオが作るチキンカレーはうまかったよな」
彼の著作や、奥さんの話によれば、星野道夫は、自分だけのこだわりのレシピを持っていたようで、特にうまいカレーを作っていたようだ。
自分が居候している家の家族もカレーが好きで、毎日でもカレーでいいと、言っているほど。市販のカレールーを使って適当に作るカレーなのに結構評判は良い。ただ、日本で同じ物を作っても、特に感動があるカレーではない。

星野道夫以降も、クジラ猟を取材に来たテレビ朝日や(滞在期間が短すぎて猟の取材はできず)、TBS「世界不思議発見」の取材班、NHKの取材班などがやって来た。
普段は温厚でもの静かで、のんびりした感じのP(前述のPとは別人)が取材班にガイドとして雇われた際には、顎で日本人のディレクターたちを使っていた。
女性タレントのガイド役としてテレビに映っていたPは、これまた普段は見られないような、機敏な動きを見せていた。
Pのあまりの変化に、画面を見ながら笑ってしまったのだった。

テレビ取材班が来ている際に、自分がその場にいることがある。
ディレクターに役に立ちそうも無い助言をすることはあれ(ホンダのレンタル料の相場なんぞ知らない)、彼らに取材をされることも無く、平穏に過ごしている(テレビに出ても喋ることはないし、喋れない)。

今のところ、テレビで放送されるポイントホープの情報は一過性で、記録としてはほとんど残らないのが現状なので(ビデオ化もないし再放送もされない)、多少の勘違いや間違いも笑っていられる。
ある程度残る媒体で、自分の思い込み、勘違い(あるいは間違い)をそのまま発表し、そのまま受け入れられてしまって、こりゃいかんだろ、というものがあるのも事実。
こういうのを見ていると、自分の家に土足で入り込まれた挙句、自分の家族について、世間に向けて好き放題言われているような気分になってしまう。

ポイントホープについて、何か書いたり作ったりする際は、一声かけていただければ、中身の確認くらいできると思いますよ。おそらくポイントホープ滞在期間が一番長い日本人なので、他の人よりは、多少ポイントホープのことを知っていると思うから。

※このページは敬称を略しております。

2013/01/12

仕事

今日、猟だけで自給自足をしているエスキモーはいないのではないだろうか(自分が知らないだけかもしれないが)。アラスカなどの原野で、好んで自給自足に近い暮らしをしているのは、ほとんど白人である。
弓矢を使わなくなってしまったので、猟をするためには弾丸が必要。犬ぞりを使わなくなってしまったので、移動の手段はガソリンが必要。大きくて広い家なので、アザラシやクジラの脂を使った石のランプでは、部屋を暖めることはできないので、電気や石油が必要。
そんなわけで、エスキモーと言えど生きて行くためには、現金が必要である。

ポイントホープに限らず、僻地の町では仕事は限られていて、定職に就いていない(就けない)人も多い。
定職に就いていなくても、年末に結構な額の配当が州などからあるので、節約して暮らせば、それなりに暮らして行けるはずだが、節約をしようという考えはあまりなさそうである。
もちろん、年末以外にも現金は必要なので、定職に就いていない人のために「仕事のための仕事」が、 町のネイティブコーポレーション(地元民が出資して作った会社)から出ることがある。

結婚したものの定職がなく、ぷらぷらしていたHは、ある日そんな仕事にありついた。
10日間程度の短期の仕事だったが、時給は確か40ドル(当時のレートで3500円程度)、1日8時間働いて320ドルという、日本では考えられないような日当だった。
 夕方、Hが仕事を終えて帰って来た。
「すげー疲れた」
「今日は何してたの?」
「1日中ポンプを見てた」
ツンドラの奥の水源池に続く町外れの未舗装の一本道。そこに雪解けでできた巨大な水溜り。その水溜まりの水を汲み出しているポンプを監視する、という仕事だそう。
「それって一人で見てるわけ?」
「いや、3人で」
「ポンプに燃料入れたりするんだろ?」
「いや、何もしない。ただ見てるだけ」
「それで疲れたとか言ってるなよな」
あまりにヒマだから、一日中、ツンドラを飛んでいる鳥に石を投げていた日もあったとか。
「散弾銃でも持って行けば、カモでも撃てたんじゃないの?」
「いや、仕事だから銃は無理」

そんなHも、数年後にようやく建物のメンテナンスを行う定職を得た。
えらく呑気な職場で、上司が見ていない間に、仲間同士で水の掛け合いをしてびしょぬれになってみたり、物陰に隠れて脅かしっこをしたり。
嬉しそうに相手にしたいたずらのことを語るHに対して
「おまえら、小学生か?」
と何度言ったことか。

ある日の昼休み、Hが職場から昼食を食べに帰ってくるべき時間。Hはベッドルームから出て来た。
「あれ、今日休み? 仕事行ってるのかと思ったよ」
「昨日の夜、眠れなくてさ、テレビ見てたら朝になっちゃって」
「で?」
「5時頃寝たら、今度は起きられなくて休んだ」
こんな調子で、意外と簡単に仕事をさぼっている。日本でそれをやると、すぐにクビだ。

その日の午後3時過ぎ。
「ベニア板余ってたよな」
とH。
「使いかけの大きいのが1枚あるよ」
「電動ドライバーは?」
「カニッチャック(玄関のホール)に置いてある」
「物置からネジを10本くらい持って来てくれる?」
「いいよ、何するの?」
「ちょっとRのところへ。まだ仕事は終わってないはずだし」
「はあ?」
「ま、いいからついて来いよ」

ということで、仕事をさぼったHと一緒に、ベニア板、電動ドライバー、ネジを持って、ホンダに乗ってHの同僚、Rの家に。

ドアをノックして中にRがいないことを確認。
「じゃ、そっち押さえておいて」
ベニア板をドア前に置くと、ドアの外枠に電動ドライバーでネジ止めし始めた。
「H、お前さあ、仕事さぼって何やってるんだよ」
「Rが家に入れないようにベニア板でドアをふさいでるんだよ」
「いや、そりゃ見ればわかるけど」

5分ほどで、ドアはベニア板でふさがれた。
「この間職場でRに水と小麦粉ぶっかけられたんだよ。その仕返し」
「仕事さぼっておいて、よくやるよな」


Rが帰宅するのは4時半過ぎのはず。
5時過ぎ。常にスイッチの入っている無線機からRの声が聞こえ始めた。
「誰がこんなことしやがったんだ? ぶっ殺してやる」
しばらく無線機から罵詈雑言が聞こえていたが、やがて静かになった。
無線機はどこの家にもあるので、町中の人たちがRの罵詈雑言を聞いている。しかし、なぜRが怒り狂っているのか、わかっているのは我々だけだったろう。

その日、仕事から帰ったRは、玄関がベニア板でふさがれているのを見つけ、電動ドライバーを探しに一度職場に戻った。しかし、そういう日に限って電動ドライバーはなく、やむを得ず手回しで10本ほどのネジを外して家に入ったのだそう。

エスキモーの人たちは冗談が好きで、よく冗談を言って笑っている。
相手が激怒する今回のようないたずらでも、HもRも、翌日にはお互いに笑いながら話していたそうだ。
深刻な失敗をしたとしても、数日後にはその失敗談を笑い話として笑い飛ばしている。
過酷な環境をも笑い飛ばせるような強靭な人たち、エスキモーとはそんな人たちだと自分は思っている。

2013/01/06

魚釣り


「魚釣りへ行くけど、一緒に行く?」
Hが声をかけて来た。
トンプソン岬の向こう、オゴトロック川(Ogotoruk Creek)でマス(アークティックチャー、ホッキョクイワナ)が釣れているらしい。釣り竿、ルアー、サンドイッチや飲み物を用意して、オゴトロック川を目指す。

空から見たオゴトロック川河口
これから向かおうとしているオゴトロック川は、かつて「チャリオット計画(Project Chariot)」という気違いじみた実験を行おうとしていた場所。

水爆の父と言われたエドワード・テラーが、オゴトロック川の河口部に水爆を使って海岸部を掘り込み、港を作ろうとした。
核爆弾で地面を掘り込んだらどうなるか。かつてソ連では、水爆で灌漑用の池を作ってみたものの、大量に発生した放射性物質のおかげで、使い物にならない池が出来上がった。
 ポイントホープ周辺に港を作ったところで、使い道は無い。嵐のための避難港を目的にしていたようだが、この付近を航行する大型船は夏にやってくるバージ(貨物船)程度。1年の半分以上を氷に閉ざされるこの付近に港を作るのはほとんど意味のないこと。
ただ、テラーが自分の欲求を満たしたいだけだった。

このチャリオット計画の一環で、放射性物質を埋めて何らかの実験を行ったとか、いまだに放射性物質が埋められているとか、様々な噂があるが、この先、ポイントホープの人たちが合衆国政府から真実を知らされることは無いだろう。

チャリオット計画は、ポイントホープのダニエル・リズバーンが中心となった反対運動によって、中止となった。
ダニエル・リズバーン、当時(2000年)、既に故人だったが一緒に釣りに来たHの母方の祖父である。

トンプソン岬の広い丘の上をホンダで走って行くと、広大なオゴトロック渓谷が見えてくる。
急な斜面を下って川の右岸へと降り、小さな流れをいくつか越えながら河口へと向かう。
放置された軍用車両
河口付近の右岸側の海岸段丘の上には、何軒かの小屋が建ち、小屋の前には軍用車両の残骸が数台放置してある。小屋は軍の宿舎だったものらしい。
小屋の背後にはトンプソン岬の大きな丘がそびえている。左岸側はよく見えないが、どうやら滑走路があるようだ。
河口部は海岸段丘になっていて、急な斜面を降りれば、海岸の砂浜へと降りられる。
どこかの本に「岸壁」という書き方をしていたが、オゴトロック川の河口部には、海岸段丘はあるものの、岸壁は無い。

川を見れば、魚の群れが引き起こす小さなさざ波が見えている。

「シンゴはこの竿使って」
渡されたのは、コンパクトロッドという、たたむと30cmほど、延ばしても1m程度の小さな竿と、見るからにちゃちな小さなリール。釣り糸だけはやたらと太いものが巻いてあり、どんな魚が掛かっても切れることはなさそうだ。
しかし、これに大型のサケやマス用のルアーを付けて投げると、すぐにすべての糸が出てしまうほど、わずかな糸しか巻かれていない。
ちなみにHは普通の竿とリール。

何種類かルアーを使ってみた結果、メップスのサイクロプスというルアーのオレンジ色が良いとわかった(アラスカではどこでも売っている普通のルアー)。
河口付近とはいえ川幅は狭く、ルアーを投げると対岸に届いてしまうこともある。そしてその状態で糸はすべて出てしまっている。そこをうまく調整しながら竿を振る。
Hが一投ごとに魚を上げ始めた。
こちらのルアーにも同じように魚が掛かり始めたが、魚を外すのに手こずっていると
「早くしろ、魚がいなくなってしまうぞ」
なぜか焦っているH。

そうこうしているうちに、やたらと重い魚が掛かった。リールのドラッグを締め上げても、小さいリールなので空回りして動かない。魚を弱らせてから岸に寄せて引き上げるのが、テレビで見た釣りの手法のようだが、糸はすべて出てしまっているし、竿もおもちゃのようで折れてしまいそう。魚を弱らせている余裕はなさそうなので、Hを呼んだ。
「しょうがないからそのまま引きずり上げよう」
糸が切れないように気をつけながら、竿を水平にしてずるずると魚を岸に引き寄せる。自分はどんどん川から離れて行き、魚はどんどん岸へと近づいてくる。
しばらくすると魚が岸に上がったらしく、近くに転がっていた木の棒でHが魚の頭をひっぱたいている。

釣れたマス
そばに行ってみると、それは全長80cmもある巨大なマスだった。
「でかいなあ。こんなでかいの始めて釣ったよ」

その後も釣り続け、二人で76尾。自分の釣ったマスが今回、最大の獲物だった。

釣りに夢中になり、膀胱がすっかり満タンになっていた。ジーンズのジッパーのタブをつまもうとしたが、冷たい水と空気ですっかり冷えきってしまった指先は思い通り動かず、タブをつまむことができない。
このままでは漏らしてしまう、かなり焦り始めたころ、どうにかタブをつまんで開けることができた。
これから寒いところへ行くときは、簡単に脱げるズボンを履くようにしよう。

軍の宿舎跡
冷えきった身体を温めるべく、あとから釣りにやって来た人たちとともに、数件残っていた小屋のひとつに入り、中で火をおこした。
閉め切った暗い小屋。焚き火の赤い光に中にいる人たちの顔が照らし出される。
誰かがマリファナを吸い始めた。げほげほとむせる音が狭い小屋の中に響き渡る。枯れ葉が燃えるような独特の匂いが漂い始め、匂いで気持ち悪くなってくる。自分もラリってしまったらどうしよう、などと考えていたが、匂いが気持ち悪いだけで、何も起こらなかった。

身体が温まったところで、それぞれ帰途につく。
凹凸の激しいツンドラを走っているうちに、大量の魚の入った袋から魚がこぼれ落ちそうになっている。
ホンダを止めて荷物を縛り直して、家に戻り、改めて魚の数を数えると、75尾になっていた。
「ツンドラに魚が落ちてるの見つけたら、みんなびっくりするだろうね」
 釣って来た魚の半分以上をお年寄りや近所に配り、残りは冷凍庫へ。
自分の釣った最大の1尾を輪切りにして、塩こしょうをかけてオーブンで焼いて食べた。もちろん、うまいに決まっている。


我々の釣果を聞いた人たちが、翌日、オゴトロック川へ釣りに出かけたが、1尾も釣れなかったそうだ。

現在、オゴトロック川の河口部の軍の施設跡は、綺麗に整地され、避難小屋として小屋が1軒残されたのみで、かつて放置されていた軍用車両も無く、更地になってしまっている。
2000年に釣りに来て以降も、何度もカリブー猟などでこの付近を訪れることがある。
もし、ここで核爆弾が爆発していたら、この付近で一切の猟ができなくなるどころか、ポイントホープやここからさほど遠くないキヴァリナという町も、人が住むことはできなくなっていただろう。

 チャリオット計画についてはDan O'Neill氏の「the firecracker boys」という本が詳しい(洋書)。
日本国内で出版されている和書で、チャリオット計画について触れている本のほとんどは(全く引用先を触れていないが)、ほぼ、この本からの引用である。

2013/01/05

初めてのポイントホープ

この話は、たいそう古い話なので、加筆修正が多々加わる可能性があります。写真はそのうち載せたいですが、あくまでも希望です

今から20年ほど前、1993年8月の終わり頃。アラスカでは秋が始まっていた頃。アンカレジからジェット機で行けるエスキモーの町、コツビュー(英語の発音に近い書き方だと「カッツブー」)の海岸でキャンプをしていた。コツビューは人口は3,000人ほどの北極圏にある町だ。

キャンプをしていたコツビューの空港の南側の海岸には、サケを捕るためのフィッシュキャンプのためのテント村があった。その一角に自分の小さなテントをはらせてもらい、近所の人たち(エスキモー、白人)と、片言の英語でやりとりしながら食事をご馳走になったり、一人でツンドラの薮の中へ歩いて行き、一時の探検ごっこをしてみたりしていた。
コツビュー滞在もそれなりに楽しいのだが、飛行場の周りに何軒かあるコツビュー周辺の町へと飛行機を飛ばしている飛行機会社の建物を見ているうちに、もう少し小さな町も見てみたいと思うようになった。

よくわからないまま、尾翼にホッキョクグマの絵が描いてあるケープスマイス航空の事務所に入り、カウンターの上に置いあった時刻表を貰ってきた。
時刻表には聞いたことのない町の名前がずらりと並んでいる。順番に見て行くと、その中に唯一知っている名前があった。
「ポイントホープ」
中学生の頃、何度も何度も読み返した植村直己氏の著作「北極圏1万2千キロ」に登場した町の名前。グリーンランドからコツビューまで、犬ぞりで旅をした際に立ち寄り、一緒にクジラ猟をした町。その文庫本にクジラが氷の上に転がっている不鮮明な白黒写真が載っていたことを覚えていた(実はそんな写真は出ていなかった。他の書籍載っていた写真の勘違いだと思われる)。
「とりあえず、ポイントホープに行ってみよう」
ケープスマイスの事務所に戻り、ポイントホープのことは何もわからないまま、片言の英語で、翌日のフライトを予約した。

翌日の午後、コツビューを飛び立った数人乗りの小型のプロペラ機。初めて乗る小型機にワクワクしつつ、窓に広がる北極の海岸線やツンドラの大地に見入っていた。
ツンドラの大地が海へと落込む断崖絶壁が続いてい場所で飛行機が高度を落として旋回する。パイロットは副操縦席に座っている一般人と思しき人と何かを話している。
当時はここがどこで、何のために旋回をしているのかわからなかったが、そこは、その後何度も訪れることになるトンプソン岬。そして飛行機は時期的にその付近にやってくるであろう、カリブーの群を探していたのだと思う。

トンプソン岬を過ぎて間もなく、コツビューから1時間ほどで北極海に突き出した砂州の先にある小さな町、ポイントホープが見えて来た。いかにも「地の果て」の様な場所だった。
飛行機の窓から見える海岸には、所々にテントが建ち、わだちのようなものも見える。海岸にテントを張れそうだな、そんなことを考えているうちに、飛行機は次第に高度を下げ、町外れの滑走路へと着陸した。

飛行場には物置小屋のような今にも壊れそうな建物が一軒建っているだけで、他には何もなかった。
途方にくれているとひとりの女性が声をかけてきた。Dと名乗るその女性は、ケープスマイスのポイントホープでの代理店をやっているとのこと。
「これからどこへ行くの?」
「海岸でキャンプしようと思ってます」
「南の海岸? それとも北の海岸?」
何も考えていなかったが、飛行機からずっと見えていたのが南の海岸だったし、南の方が明るい様な気がしたので南の海岸と答える。
「だったらホンダで送ってあげるわよ」
「HONDA」ホンダで作っている4輪のバイク状のATV(All Terrain Vehicle:全地形型車両、4輪バギー)という乗り物。日本語ではホンダだが、英語で言われると「ハンダ」と聞こえる。何のことやらわからず、この乗り物を「ハンドル」と呼んでいるのかと思ったほど、ヒアリングの力はなかった。

「あなた、いつまでこの町にいるの?」
「3日後の飛行機で帰ります」
「それじゃ3日後に迎えに来てあげるね」
町の南側の海岸、放置された白いアルミのボートの脇に降ろしてもらい、彼女と別れた。

テントを張り終えると、時間は既に夕方6時前。腹が減っているが、夕飯を作ろうにも真水がない。店があるに違いないと、水を買いに町へと向かう。
小さな町ゆえ、意外とあっけなく店は見つかったが、既に閉店しているらしい。偶然店から出てきた男に、水が欲しいと訴えると、店内に案内してもらえ、1ガロン(3.8リットル)の大きなボトルを手に入れることができた。

テントに戻り、アンカレジで買ったパンとインスタントスープで、テントの外で海を見ながら晩飯にした。
食事が済んでもまだ明るいので、自分のテントや付近に転がっている白骨化したアザラシのものらしき骨や、風景などの写真を撮りまくる。
今となっては珍しくも何ともない、海岸のあらゆるゴミが、当時は珍しくて仕方なかった。

深夜0時頃、そろそろ寝ようかと思っていると、海岸の砂利を踏みしめる音と子どもの声が聞こえてきた。
「ここで何してるの?」
「どこから来たの?」
「どうやって来たの?」
小学校3〜5年生くらいの男女数名がテントの前に現れ、質問の嵐。
子どもたちの顔つきは、日本人の子どもとほとんど一緒で、着ているものも日本人とそれほど変わりがないので、彼らが英語を喋っているの様子を見ると、まるで日本人の子どもが英語を喋っているようで、不思議な感じがした。

「私の名前、日本語だとどう書くの?」
耳で聞いただけでは、どんな名前かわからないので紙に英語で書いてもらい、それからカタカナで書いて上げると、大喜び。
そのうち飽きたのか、町の方へと帰って行った。

翌朝、ゆっくりと起き(朝寝をして)、朝食を食べてから、町を見物に行く。
町中は、木造の普通の家が立ち並ぶ。主な道路は舗装されていて、ピックアップトラックや、ワゴン車、ホンダが町中を走り回っている。
巨大な高床式の建物が町の中心に建っている。これは学校らしい。
町中で出会う人たちは、毛皮のフードのついた綺麗なジャケットを着ている女性やアンカレジあたりで売っていそうなありふれた防寒着を着ている人まで様々。

昨夜、水しか買わなかった店に行って見ることに。
「ポイントホープ・ネイティブストア」それが店の名前。
日本の田舎にある個人経営のちょっと大きめのスーパーという感じだろうか。野菜、冷凍食品、薬など、一通りのものは置いてある様子。エスキモーの食べ物、例えばアザラシなどが置いてあるかと思っていたが、そういうものは一切置いていなかった。

店内を一回りして、外へ出て、さてこれからどうしよう? と入口のところで考えていると、一人の女性が声をかけて来た。
簡単に自己紹介をして、レストランや喫茶店があるか聞いてみたが、そういうものは一切無いという。
話をしているうちに、一緒に昼ご飯を食べないか? と言っているらしいことに気がついた。
なぜ初対面で見ず知らずの自分に対してそんなことを言ってくれるのか謎だったが、悪い人でもなさそうなので着いて行って見ることにした。

ホンダの後ろに乗ってたどり着いた彼女の家の周りは、ゴミともなんとも言い難いものが散乱していて、雑然としている。家の中も雑然としていて、チワワが走り回っている。壁には大小様々な写真。これがエスキモーの家なんだろうか?
彼女の名前はE。今は一人暮らしをしているらしい。
「そういえば、あんたの名前はなんだっけ?」
と何度か聞かれる。初めて聞く日本語の名前では、中々覚えられないだろう
「シンゴだよ。音的にはビンゴに似てるよね」
「シンゴビンゴシンゴビンゴ… よし、覚えた」

Eが昼ご飯にご馳走してくれたのは冷凍食品のフライドチキンだった。
食後、彼女が海岸や昔の家のあるあたりで見付けたという、古い石の鏃(やじり)や、セイウチの牙製の古い道具などを見せてくれた。日本だと2000年以上前に使われていた石器だが、この付近では数百年ほど前まで使われていたものだそう。そんな博物館に入っていても良さそうな遺物が、Eの家の戸棚や袋に入れて保存されていた。

Eは午後から仕事だが、明日は休みなので、ホンダでどこかへ連れて行ってくれるという。そしてテントまで迎えに来てくれるとのこと。
昼食後、Eは再び仕事へ出かけて行ったので、町を少し歩いたあとテントへ戻ると、中が荒らされていて、日記や懐中電灯などがなくなっていた。
入り口に鍵をかけていたが、ベンチレーター(換気口)から手を突っ込まれてものを盗られたらしい。

落胆していると再び子どもたちがやってきたので、物を盗られたことを説明すると、何名かの名前を上げていたが、それが誰なのかわかるはずもない。
警察に言うのか? と聞かれたけれど、金目のものは盗られていないし、大した被害でもないので、言うつもりはなかった。ただ、この旅をずっと記録している日記だけは返して欲しかった(後でテントからさほど遠くない場所に落ちているのを見つけた)。

夜。昨晩同様、何度か子どもたちの襲来があった。
かなり太った15歳くらいの女の子が、大きなジップロックに入った大量の冷凍キイチゴをくれた。サーモンベリーというキイチゴだそう。よく見れば色といい形といい、サケの卵によく似ている。
サーモンベリーをくれた女の子の名前は聞いたはずなのに覚えていないし、顔もよく覚えていないので、今となってはあれが誰だったのか、知る由もなく、なぜ彼女がサーモンベリーをくれたのかは謎のままである。

夜も遅くなり、子ども相手で疲れたので寝袋に入って寝ようとしていると、海岸の砂利を踏みしめる音が聞こえてくた。
また、子どもが来たのか、今回は無視しよう、と思って寝たふりをしていた。しかし聞こえて来たのは大人の女性の声。
何事だろう、とテントから顔を出す。
「昨日から海岸のテントで寝ている外国人がいて、子どもたちにいじめられているって息子が言うから見に来たの」
多分、そんなことを言ったのだ、と思った。とにかくヒアリング力はない。
ふと見れば、傍にトラックが止まっている。気がつかなかったが、彼女はトラックでテントの脇にまで来ていたのだった。
「よかったらうちに来ない?」
そんな風に言われたような気がした。
「この間もイスラエルからのお客さんが来ていたし、遠慮しなくていいのよ」
と言ったらしい。
ここまでを理解するのに身振り手振りを交えて、かなり必死な状態だった。
トラックの荷台にテントや荷物を放り込み、彼女の家に向かった。

彼女の名前はe、家には旦那さんのPと昼間、海岸で遊んだ男の子が2人リビングで毛布にくるまってテレビを見ていた。そして3歳くらいの女の子と1歳くらいの赤ちゃん。
エスキモーの家とはいえ、特に変わった家ではなく、普通のアメリカ人の家といった感じ。いや普通のアメリカ人の家を知らないので、何を持って普通と言っていいのかわからない。
大きなバスルームにあるトイレはバケツに便座が付いたものだった。それくらいがいわゆる普通の家と違う思われるところ。

英和和英辞典を片手に身振り手振りで話しをした。
何歳に見えるか、と言うので、中学生くらいの男の子が2人もいるのだから、40歳くらいか、と思ったら、1人は息子Hの友だちだった。そしてeとPの年齢は30代前半。自分と10歳も離れていなかった。
しかし、いずれこの夫婦を「父ちゃん」「母ちゃん」と呼ぶことになろうとは。そして、当時中学生だったHのことを兄弟と呼び、彼が結婚して住んでいる家に居候することになろうとは思いもしなかった。

寝るために貸してもらった息子の部屋は、壁も天井も、プロバスケットボール選手のポスターで埋め尽くされていた。中でも多いのはシカゴブルズのマイケル・ジョーダン。
マイケル・ジョーダンに見つめられ、北側の窓から射し込む太陽の光を浴びながら眠りについた。

翌日、eとPに昔の町があった空港の西側へと連れて行ってもらった。クジラのあごの骨で骨組みを作り、芝土で覆った家。木造の建物の周りに芝土を積み上げて断熱材代わりににしている家。
1970年代に高潮による被害を避けるため、現在の町に集団移住してしまったので、ここに住んでいる人はいないという。

家に戻って写真を見せてもらったりしながらくつろいでいると、Eがやってきた。
「やっと見つけたわよ。探したんだからね」
昨日の約束を忘れておらず、町中を探し回ってくれていたようだった。
「暖かいジャケット持ってる?」
eが言う。
その時、自分が着ていたのは、薄い雨ガッパで保温性はない。
Hが着ているというエスキモーのジャケットを出して来て貸してくれた。
ファスナーの無いプルオーバー式の毛皮(羊)のジャケットで、首周りが少々小さくて首を出すのは大変だったが、着てしまえば特に問題はなさそう。
そのジャケットを着て、どこへ行くのかわからないまま、Eのホンダの後ろに乗って出発した。

海岸の砂利道を全速で走り続けるE。振り落とされたら首の骨が折れて死んでしまうな、そんなことを考えてしまうくらいスピードを出しているように当時は感じていた。しかし、当時のホンダは排気量が小さく、さらに二人乗りだったので、それほどスピードは出ていなかったのではないかと思う。
ポイントホープに来るときに、飛行機から見ていた海岸線を逆方向へと走った。右手に海。左手にはツンドラの丘や湖が現れる。

途中「ピングッチャック」と呼ばれる場所で休憩。
海岸段丘を上がってすぐの場所には、古い建物の跡とおぼしきクジラの骨が地面から突き出していた(今は段丘が崩れてしまい、住居跡はもうない)。
段丘の上のツンドラを歩いていると、USGS(米国地質調査所)が地図を作る際に使用している測量用の杭が目印として地面に突き刺してある。
「ここも誰かの土地になのよねえ」
目印を見ながら、つぶやくように言うE。
エスキモーが自由に猟をしていた土地が、誰かに「杭」を打たれ、彼らのものではなくなってしまい嘆いている、そんな風に感じていた。
しかし、ポイントホープ周辺の海岸には、かなり密に所有権がある(これを知ったのは、つい最近のこと)。あのとき、Eはこの場所がアメリカの土地になってしまったことを嘆いていたのではなく「ここもポイントホープの誰かの持ち物なのよね」と、自分に言い聞かせるようつぶやいていただけだったのだと思う。

さらに東へ向けて進んで行くと、彼方に見えていた断崖絶壁がどんどん近づいて来る。
海岸にホンダを止めて、段丘をのぼると、北に向かって広がるツンドラの先に、気持ち良さそうなツンドラの丘陵地が広がっている。
「あそこに丘がみえるでしょう? あの丘の上に気持ちのよいトレイルがあるから連れて行ってあげたいんだけど、ガソリンが無いから今回はちょっと無理ねえ」

そこから数100m走ると、きれいな水が海へと流れ込んでいる場所にたどり着いた。
目の前には、巨大な崖。
 イスックと呼ばれるその場所は、トンプソン岬の丘へと上がって行くトレイルの入口でもあった。
人々はこのトレイルを通って、トンプソン岬の向こうへと獲物を探しに行くのだそう。

「何か容器を持ってくればよかったねえ」
イスックの水は美味しい水なので、ポイントホープの人たちは、わざわざここまで汲みに来るのだそう。
(当時、既にポイントホープに水道は普及していたものの、水源はツンドラの池で、その水を濾過消毒して使っているため、それほど美味しい水ではない。各家庭に浄水器が普及する10年ほど前までは、タンクやバケツを持ってここまで水を汲みに来たり、雨水を飲用に使っていたが、今では浄水器が普及したので、わざわざ水を汲みに来ることはなくなった。)

イスックにて。今では信じられないくらい細いE
流れの脇には、誰かが火をおこした跡の横にカリブーのあごの骨の一部が落ちていた。こんなどうでも良さげなゴミの様な骨でさえ当時は珍しく、Eに見つからないように、こっそりとポケットへ入れた。いつかまた、この場所に帰って来ようと思いながら(その後、その骨はゴミになった)。

流木に腰を下ろして、煙草を吸いながら、話をしたが、覚えていることは「馬」と「ウーマ」について。ウーマとは自分の配偶者と同じ名前の人のこと。日本語で同じ発音だと「馬」のことだよ、と。

振り落とされる恐怖を感じながら、 町に戻り、ポイントホープで最も特徴的な場所、墓地に案内してもらった。
墓地はクジラのあごの骨で周りを囲まれ、その中にいくつもの十字架が立っている。アラスカのエスキモーを紹介する本にはよく出て来る場所だ。
十字架の中に、新しくて大きい二つの十字架がひとつになったものがあった。
「これは私の双子の娘の墓」
 つい最近、ホンダの事故で亡くなったのだという。
日本語でさえ、そんなときにどのような言葉をかけてよいのかわからないのに、英語力の無い当時は、本当に何も言えなかった。
大声で笑い、冗談ばかり言っているEからは、想像もつかなかったが、そんなことがあったとは。

家まで送ってもらった別れ際、太陽の位置を見ながら
「今は5時20分くらいかな」
というE。
腕時計を見るとまさに5時20分。
エスキモーってすごいな、いやEがすごいんだろうか。

eの旦那さんPとともに、彼のお父さん(育ての父)とお母さんの家に。家に入ると、何か独特の匂いがしていた。今になって思えば、それはシールオイルの匂い。
最近の若い人の家では、シールオイルの匂いを嗅ぐことはほとんどなくなってしまっているが、今でも、お年寄りの家のドアを開けるとシールオイルの匂いがすることがあり、何となくほっとする。
Pのお父さんは、クジラ猟のキャプテンをしているという。クジラに撃ち込む銛を見せてもらった。太い木の柄に真鍮の先端部。非常に重く、よくこんなものを投げられるものだと思う。
Pに、父親を継いでキャプテンになるのか?と聞くと、はにかみながら「まだわからない」答えていたが、それから10年ほどでPはキャプテンになった。

翌日はポイントホープ最終日。午後の飛行機でコツビューへと戻る。
学校で働いているというeに学校へ連れて行ってもらった。
教室へ入ると、海岸のテントへ遊びに来た子どもたちの姿が見える。
「日本の話をして」
と先生に言われるが、英語は聞くのも喋るのも悲しいくらいできない。どうしようかと思っていると、子どもの一人が
「ぼくの名前、日本語だとどうなるの?」
というので、黒板に名前を書いてもらい、それをカタカナに。先生的には問題があるかもしれないけれど、子どもには喜んでもらえた。

いよいよポイントホープを去る時間が近づいて来た。
eが別の場所で仕事をしているEを探し出してくれ、お別れのハグをする。
どうでもよいことだが、この頃のハグは、慣れていなくて腰が引けていた。
「また、遊びにおいで」
eと腰の引けたハグをして飛行機に乗り込む。

離陸した飛行機は、Eと走った海岸の上を飛んで行く。
様々な人たちとの出会いに感謝しながら、感傷的な気分になって行く。来年もまた、この町の人たちに会いに来よう、そう思った。

自分がこのあと、20年以上に渡って毎年のようにポイントホープに通うようになるとは、そのときは思いもしなかった。


2013/01/01

明けましておめでとうございます。

昨年、突発的に始めた当ブログですが、無事に年を越すことが出来ました。
今年も、思いつくままにポイントホープのことを書いていきますので、よろしくお願いいたします。

毎年、ほぼ同じ場所で初日の出の写真を撮っているのですが、今年は低い雲で今ひとつ。同じ時間に出ていた月がきれいに撮れました。
初日の出風のもの
同じ時間に撮った月